37話 混沌の海《11》
今まで沈黙していた海の魔物が、静かに語り始めた。
『我ら海獣の真名は、海の精霊ヴァハディナラ。海の王者、海王龍の直属精霊です』
人間を襲い、その生命力を糧にしたことも幾度か有ると、彼は言った。
『海底深くに身を潜めていた海王龍は、この数百年の間続いた精霊王の不在により酷く枯渇しております。最早海底から出られる力さえも無い……だから貴女の降臨を何よりも待ち望んでおりました』
海の魔物は悲しく、優しい目を向ける。
海王龍は千年近くの間、深い海の底に沈んだままだと言う。海王龍を救えるのは精霊の王しかなく、ヴァハディナラたちはまだかまだかと首を長くして待ち続けた。
そうして現れた一人の少女。コウは暫くティレニアで囲われていた為世界の多くを知らない。ヴァハディナラたちもまた、精霊王の存在に気付いたのはコウが海と交わった時が最初なのだ。
『西海で貴女にお会いした時、すぐにでも海底にお連れしたかった……けれど』
「出来なかった、か。精霊にも情が移るとはコウのお節介もたまには役に立つな」
「それどういう意味!?」
リセイは余裕を見せている。しかし内心どうであったかは微妙だ。
何せ相手は海界で最も戦闘力の高い猛獣である。所詮人間ごときが彼らの本気に適う筈もない。
だが彼は、心というものに期待していた。人間にも精霊にも共通して有る愛しいと思う感情が、何よりコウを守るのではないかと。
『今度こそ、貴女のお力を貸していただきたい。我々が先導しますから、どうか一時我らに身を授けてくれないでしょうか』
何とも控え目なお願いの仕方である。
それが気に喰わなかったのか、荒々しい左右の海獣が交互に口を挟んだ。
『何をほざくか、ばか者が。精霊王には尊い犠牲になってもらう』
『その通り。ちょっと力を借りるくらいで海王龍が復活するなら苦労はしない』
左右の海獣が言葉を放つ度に、ちゃぽんと海水が跳ねた。
『精霊王の力は死の直後に最も引き出されるもの。今の海王龍を満たすとなれば、それしかない』
『つまりお前は海界の王に命を捧げるのだよ、精霊王アムリア』
そうして、二匹の魔物は私を嘲笑った。そして、これ程精霊が恐ろしいと感じたことはなかった。
商船の下に居る二匹の海魔ヴァハディナラは、私を殺すということに何ら躊躇いが無い。その間に挟まれる様に浮かぶ、いつかの海獣だけは蒼白な顔色をしていたが。
「コウを海神の生贄にする気か、傀儡共が」
リセイの中に沸々と怒りが込み上げて来る。冷静になろうと手を強く握っても、爪に食い込んだ掌から血が流れるだけだった。
「リセイ、手が……っ」
「コウ、俺は例え海が死んでも君を差し出すつもりはないぞ」
間を置かずにリセイがそう言った。深緋色の瞳は見るものを震撼させる。
「精霊王は肥やしになるって聞いたことはあるよ。ずっと昔に、それで命を落とした王もいるって」
「馬鹿を言うな。だから君を精霊に喰わせると? 冗談じゃない」
「お、おいおい、もうちょっと落ち着いて話そうぜ」
二人の間に入ったのは船長ユーリックだった。リセイは何か言いかけて止め、代わりに長く息を吐いた。
「ああ、そうだな……」
彼が平静を失うのは珍しいことである。これ程緊迫した状況に陥ったことはないと船長は思った。
「ここで海精霊と争う気はねぇが、コウはやれないし。なぁ、ヴァハディナラだっけ? 他に方法はねぇのかよ」
『他に、か? ならばお前達が全員死ねばいい』
はい? と聞き返したユーリック。それは耳を疑いたくもなるだろう。
「なに、冗談……」
『冗談ではない。精霊王と同様の力、となればここにいる人間共の魂を全て集めねば足りないかもしれないな。我々はどちらでもいいぞ? もし精霊王を差し出せないというなら、ここにいる数千の人間が命を落とすだけだ』
『『さぁどうする、精霊王よ』』
「そ……んな、こと……」
選べと言うのか、この私に。
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