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1:混沌の海08


 甲板を出て空を仰いだコウは大きく深呼吸をした。その間にリセイはユーリックを探すが、何故か見当たらない。
 足早に歩くリセイの前に、闇の従者が現れた。

「リセイ様。船底を見に行った商人達がまだ帰って来ていない様です」

「ユーリックにしては時間が掛かっているな」

 リセイは商人の群れを掻い潜り船の先端まで行くと、目前に垣間見える広大な海を見詰めた。
 コウも彼に寄り添う。

「──やはり、おかしい」

「何のこと?」

「海の精霊の気配は感じるのに姿が一つも見当たらない」

 リセイは目を凝らして遠くを見据えた。湾曲した水平線は風景を歪んで見せる。

「あ……船長! 何してたんですか、心配しましたよ!」

 そう甲板で叫んだのはいかにも気弱そうな細身の商人である。彼はすがる様な目で船長ユーリックの元へと駆けて行った。

「船長、船底はどうでしたか? また魚たちが衝突したとか……」

「──リセイ」

 しかしユーリックは商人を素通りして真っ直ぐリセイの方へ歩いて行く。まるで周りが見えていない様に。

「どうかしたのか? 真っ青だが……」

「──現れやがった」

 船長はぽつりと呟く。コウはリセイと顔を見合わせ、首を傾げた。

「何の事か分からないけど、取りあえず船室で休んだら? ユーリック、凄く顔色悪いよ」

「……じゃねぇ……」

「え?」

「それどころじゃねぇんだよっ」

 ユーリックが声を荒げるのは珍しい。特にコウを相手にしてこの応対は有り得ない。

「あいつらが……何でこんな時に、何でだよ!」

「落ち着けユーリック。船底を見に行ったんだろう。何が原因だったんだ?」

 ユーリックは一度顔を上げ、不安と苛立ちが混ざった複雑な目でリセイを見た。

「前方の船底が丸々食い尽くされてたんだ。
 ──海の魔物にっ!」

 ユーリックは乱雑に頭を掻き揚げた。

 船長はその目ではっきりと見たらしい。船の底板を食い千切る獣たちの姿を。そして彼らが人間に干渉してきたという事は、勿論これだけでは済まない事態なのだ。
 一度狙ったらその船が完全に破壊するまで食い尽くす。それが人間に恐れられている海の魔物、海獣である。

 次の衝突は未だ起こらず、待つ間が余計に不安を掻き立てた。

「ここは彼らの棲みかだったのか?
 ……いや、その可能性は低いな」

 リセイは海を見渡した。この航路は普段から良く使われているものである。今まで一度も海の精霊たちと争いになったことは無いのだから、やはり今回は異常事態なのだ。

「おい! 何だあれ!」

 リセイの思考を遮るようにとある兵士が叫んだ。彼は高台で見張りの番をしていた者である。彼が指差した先を皆が追ってゆく。しかし見慣れない黒蒼色が散りばめられているだけであった。

 いや、初めは流木か海藻だろうと思ったが、何かが明らかに違うのだ。それは、怯える人間共を嘲笑うかの様に波を荒立てていた。

 まるで意思を持つかのように。

 そうして我先にと海面に現れたのは、見たことも無い巨大な生物であった。
 あるものは魚の尾を遊ばせ、またあるものは蒼く艶光る鱗を晒している。

「な、何だあれは……精霊か?」

「あっちにも……ほら、あそこからも涌き出てきやがる! 一体何だというんだ!」

 不思議と空に音は無い。風が止み、呼吸さえも空間に溶けて消えた。
 船の周りを隙間無く囲った海の精霊達は、決して穏やかではない様相を見せている。
 憎しみや恨みではなく、絶望から逃れられる術を見つけた時の、いや、これで救われると無理に思い込んだ時の顔だ。

 それに恐怖した兵士たちが武器を手に取ってもおかしくはないだろう。

「馬鹿野郎! 刺激する様な真似をするな!」

 帝国軍の隊長の部下を制する声が飛び交う。海の世界は未だに謎で、迂濶に手出し出来ないのだ。
 彼ら海の精霊に戦う意志がないのなら、戦わずして物事を進めたい。海の上で彼らと争っても、人間が負けるのは目に見えている。

「リセイ、あの子たち、海の精霊かな」

 コウは海に浮かぶ獣達を見ながら言った。人間二人分は悠に超えているであろう巨大な生物を、あの子と呼ぶのはコウくらいだろう。

「海の精霊、種族は海獣か。いつも以上に禍々しいな。気が立っているのか」

「うーん、怒っているというよりは、哀しい……のかな」

 海獣の鋭い視線を浴びてもなお、コウは顔色が変わる様子はなかった。

「コウ、彼らと……話が出来るか?」

 間を置いたのは、コウを危険な目に合わせたくないという気持ちが邪魔をしたからだ。
 しかしコウは素直に頷いた。

「うん、やってみるよ」

 いつかの航海を思い出す。突然海に引き摺り込まれ、死ぬかもしれないと恐怖を感じたあの時。人に恐れられていた海獣は誰よりも人間に怯えていた。
 精霊が長い間形を保っておけるのは何故かと不思議に思ったが、恐らく海と陸では世界が違うのだろう。



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