37話 混沌の海《31》 硝子の割れる音がした。 執務室で仮眠をとっていたルクードは、後から後から響く騒音に目を覚ます。 「……何事だ?」 下の階からだろうと思い起き上がると、ちょうど誰かが訪ねて来た。返事をして中へ入る様に言うと、数秒躊躇った後、扉が開いた。 尋ね人は緑碧の髪の女騎士。レジェンダだ。 「ルクード様、申し上げます」 レジェンダはいつも通り真面目だが、どこか複雑な顔をしていた。 「ああ、砂漠の件か。どうだ、見つかったか?」 「いえ、周辺を隈無く探しましたが、ナティア=ソルの亡骸は何処にも……」 「……そうか」 掠れた声で返された言葉は上手く聞き取れなかったが、レジェンダは俯いて床を睨み付けた。 助けられなかった。まだこれから先、沢山の可能性に満ちていた少女を死なせてしまった。これが戦争だと、頭では理解していても割り切れるものじゃない。 「それと、ノエルが……」 「分かっている。大分荒れているな」 慰めようが無い。誰を罵っても、神に祈り続けても、死者が生き返る事は無いのだから。 「……魔導戦士レッカ=シュドナール、彼女も先が楽しみな戦士でした。ただ、ノエルにとってはたった一人の血を分けた兄妹ですから……悲しみも計り知れないでしょう」 歴代戦人に竜騎士が名を連ねる東国で、自然精霊の力を借りた魔法というものはそれほど重要視されていなかった。その為この国では、司祭と言えば闇の契約者を指した。 そんな中で、近衛隊に所属するノエルは貴重な魔導士だった。それは彼が生まれながらにして強力な精神を持っていたこと、そして精霊と通じる不思議な力を持っていたからだった。 彼の妹、レッカは兄を習って軍事機関へ入学し、最強の魔導戦士を目指していた。そう易々と叶いはしなかったが、東国に赴任してからは途端に魔家の血が現れ始めた。 驚くべき少女達の成長ぶりに感嘆し、誰もが期待した。 けれど、全てが呆気なく終わった。 「レッカ=シュドナールの遺体は既に回収済みです。ノエルには……」 「彼にも別れを言う間を与えるのが当然だ」 あんな、妹の惨い姿を見せるのは酷でもあるが。 「ノエルには私が言おう。第二竜騎士隊の編成と捕虜の処遇はお前に任せる」 「承知致しました」 見惚れていた事に気付かれなくて良かったと胸を撫で下ろし、レジェンダは執務室を後にした。 廊下で一度、敬意を込めて頭を下げる。靴を鳴らして歩き出すが、どうしても気になって振り向いた。 ルクード王子は何を言うつもりだろうか。兄妹を亡くした彼には、どんな言葉も刃となって胸を突き刺すだろう。 「レジェンダ、ここに居たのか」 声に気付き、レジェンダは呼び主を探した。 意外にもすぐ近くに居て、彼は僅かな驚きと安堵に赤い目を細めていた。 「一睡もせずに城の管理をしているそうじゃないか。あまり無理をしても得はないぞ」 「イヴァンこそ、こことケルト城を往復してばかりでしょう? 全く、王子は人使いが荒いわ」 不思議と笑っていた。今の今まで苦痛に顔を歪めていたのに、同志の声にこんなにも安心してしまうなんて。 「本当にな。それで、王子に用でもあったのか?」 「ええ、ナティアの事で……」 その名を聞くや否や、イヴァンはぐっと眉を吊り上げた。彼もまた、失う恐さと悔しさを感じていたのだ。 「……その事だが、少々不可解な点がある」 「あら奇遇ね。私もよ」 近衛の二人は無意識に意思を通わせる。そう、長い間王家に仕えてきた彼らだから、どんな時でも信じ合えた。 「……が、ここで口にすることじゃないな。取りあえず探りは入れてみる」 「ええ、お願いね」 一礼してレジェンダが去ろうとすると、イヴァンがそれを止めた。 「王子は今何を?」 「執務室にいたわ。これからノエルと少し話すって」 再び漂う重い空気を振り払う様にレジェンダは歩き出した。その後ろ姿はとても心許無くて、イヴァンは呼び止めようとして、口を噤んだ。 緑碧の戦女神。東国が誇る竜騎士の紅一点。それがレジェンダ=スノーウェルであり、騎士の間では隠れて人気が高かった。 ところが彼女はというと、恋や結婚に全くの無関心ときた。誘われては断り、襲われてはなぎ倒し、第二竜騎士隊隊長の座を勝ち取った彼女の腕を上回る者はそうそういなかった。 「俺も可笑しな事を考える様になったものだな」 以前の自分ならどうでもいい事だった筈だ。だが、今回の帝東戦で感じた死への恐怖が己を弱くさせている。 「……鍛錬が足りんな」 イヴァンは肩に掛けていた竜槍を取り、真っ直ぐ訓練場へ向かった。 ←前へ|次へ→ [戻る] |