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1:混沌の海00


 ===プロローグ===


 雫が落ちる。

 少しずつ体温を奪われてゆく薄暗い空間に蠢く影は、青い肌をした人ならざる者であった。

 見渡す限り、湿気た土壁と泥と砂。ところどころ流れ出る湧き水が唯一彼の体を癒した。

 そこら中で目につく白花の大輪の、あまりの煩わしさに目を反らしたが、鼻に掛かる刺激的な芳香がそれを忘れさせてはくれなかった。

『何を、間違えたのでしょうね』

 “どこまで遡ればやり直せる?”

 燃え上がる炎の中に立ち尽くす女の姿が今でも目に浮かんだ。
 愛しい、愛しい人よ。私など捨ててもいいから、嫌いでいいから、どうかどうか消えないで。この世に祝福された御身を、大切に慈しんで。

 愚かな水を嘲笑うように水面が掠れた。


『随分と弱り果てたね、水神ミュートニア』


 背後から身を刺すような声がして、男が振り向く。汚い石壁に足をつけるその人物は真っ白な肌と長い白髪で、体の周りには氷の破片を散らばらせていた。

 見た目は、まだ幼い少女。だが全身から溢れる精神量は一般に見られるものとは比べ物にならないほど凄まじかった。

 彼女はゆっくりと歩み寄る。優しく男に手を差し伸べたかと思えば、容赦なく湿った地面に突き落とした。

『……っ』

 尊き神の体は水藻や陰性植物の気色悪い感覚にも慣れたらしい。

 水神が別段抵抗らしきこともせずにいると、氷の少女は酷く不快な顔をした。見下す様な眼光は心まで凍らせてしまうほど冷たく感じる。

『水神、貴方はこのまま死ぬつもり? 人間なんかの為に』

『……人間の為に? まさか』

『なら何故無知な人間共を絶やさないの? このまま地力が衰え続ければ水力も比例して弱まる……。世界はこれ以上耐えれぬところまできているというのに』

 耳に心地良い、透き通った声を聞きながら水神は目を伏せる。そうして自然界の全てを垣間見ても、創世の時代より遥かに微弱な力しか残っていなかった。

 彼は再び氷の少女を視界に映し、そっと微笑む。

『どの道を選ぼうとこうなっていたでしょう。それは自然の流れなのか、人為的なものなのかは知りませんが。ただ、この世界が人間という小さな生き物に左右されてしまうとは到底思えないのですよ』

『なら貴方はこのまま世界と死ぬというの』

『まさか。ただ、私はどうしても人間の存在を無視出来ない。例えば君に、生きるものの素晴らしさが分かりますか? 一瞬にして我々を通り抜ける彼らの得難い美しさを……』

『アタシにはどうでもいいよ、そんな事』

 氷の少女はふいと顔を背ける。日も満足に当たらない地下水道に根強く咲く白花の生命力は、寧ろ恐ろしかった。

 感覚を麻痺させる匂いに耐えるのももう限界だと、彼女は氷を集め始める。

『あの人の所へ戻るのですね』

『うん、でもあの人は……自らの尊ささえも忘れてしまわれたの』

 その後退がより顕著に現れだしたのは、数日前に東大陸の地精霊が全て尽きた時からだったと彼女は呟いた。

『そう、とうとう東の地精霊が居なくなりましたか。これは急いだ方が良さそうですね』

 水神は地面に突っ伏していた体を起こし、泥を払う。その時露わになった素肌の痣には気付かない振りをして、覚束なくも立ち上がった。

『……お節介な人、まだ人間共を見捨てないというの』

『ええ、激情に走る彼女を静めてくれた恩もありますし』

『ふーん……お馬鹿な水神。アタシは知らないから』

 十分氷を集め終えると、白髪の少女は疾風と共にこの空間から消えた。

 二ヴルヘイムの天使は健在なんだねと、不敵に笑みを溢していたのは殆んど無意識だ。


 水神はきゅっと口を閉じ、全精神を掻き集める。まだこれ程残っていたのかと自分でも感心した。

 彼は今し方の形態を崩すと、そのまま大気に溶けて入り口を目指す。



 体は連れてゆけない。

 だからせめて、この衰えた神の力を届けよう。

 風のフェザールーンは気付いてくれるだろうか。

 どうか、私たちの大切な人に与えて、

 助けてあげて──。




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