9話 消せない過去
白黄の月が夜を照らし始めた頃、機関の中央、軍事機関最高司令部の一室に一人の女性が居た。
彼女の左薬指にはルビーの指輪が填められている。少し年季の入ったところを見ると、数十年の月日を感じる。
だが、夫と共に機関で生活している訳ではなく、今は互いのやるべき事の為に離れて暮らしていた。
頭の上で一つに纏めた髪を降ろし、一つ溜息を吐く。
毎日この機関の運営と管理に追われ、女性らしさというものもすっかり失い、今では多少面倒な存在として扱われる次第である。
長年の技と勘は衰えてはいないものの、若い教官にとって彼女の存在は邪魔でしかなかった。
レスターフィルゼ=ヴァスカ。
この名を知らない者は、この機関にはいないだろう。
毎年編入してくる膨大な数の軍人候補生をまとめているのは、紛れも無く彼女であり、機関の規律を取り決めているのも然り、この機関において最高地位を持つ彼女を議長と呼び、敬う者は少なくなかった。
「今年で何年目になるかしらね」
数えるのも嫌になる程の間、この機関で過ごした様な気がする。
他の事を考えようと顔を上に向けた時、扉を軽く叩く音がした。
「レスター議長、ご報告がございます」
「ええ、いいわ、入りなさい」
一呼吸置いて明けられた扉の向こうに居たのは、機関の制服を着たそう若くはない男性教官だった。
「議長、先日禁断の敷地に何者かが入った痕跡があると、下の者から報告がありました」
彼は神妙な面持ちで報告を続ける。
「新入生ならばまだしも、帝国からの使者も目撃されています」
「そうですか……ま、帝国の重役が何かをしている事は気付いていますが」
さして問題も無さそうに答える議長に、その教官はもどかしさを感じた。
「どうしますか? 確かに帝国はこの機関に十分な出資をしていますが、だからと言って勝手な真似をされて、それを放置するなど……」
規律を乱す者は厳しく取り締まるべきだと、彼は付け加えた。
レスターフィルゼは目を伏せ、思考を巡らせた。
分かっていた。最近、最も厳重に管理されねばならない宮殿が人の侵入を許しているという事など。
だが、宮殿の監視はとある人物に全てを任せており、とにかく今はそちらを調査する資金も時間もなかった。
「……その件に関しては私が単独で調べます。あなた方は引き続き入館者の調査と監視をなさい」
「……はい、分かりました」
彼は少し不服そうに返事をしたが、議長は言葉を足さなかった。
これ以上、討論する様な話ではない。そう相手に伝えたかったのだ。
教官は足早に扉まで歩き、一礼して部屋を出た。
再び訪れた静寂に、また溜息が零れる。
宮殿も含め、この機関の全てを把握しておかなければならない自分に、必要な情報が届いていない。それは致命的とも言えよう。
上からも、宮殿の管理者からも、何も言っては来ない。
このまま普段通りに物事を進めてもいいものか、レスターは密かに悩んでいた。
すると、今度は軽快なヒールの音が廊下から聞こえてきて、この部屋の前で止まると、二回扉を打つ音が鳴った。
今日はやけに来訪が多いと鬱になる議長は、いつもの様に返事をした。
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