Merging Melodies
5
『二人ともぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!』
『きゃぁ!チェレンがまたネガティブに!』
夢の中の二人が道場の門をくぐり、中へ消えていくのを追い掛けようともがいていたチェレンは、前触れというものに導かれることなくいきなり現実に引き戻された。
あまりにもいきなりすぎて、夢の中で叫びまくっていたチェレンは、現実に戻った事を認識できず、終始意識の内部で反芻していたつぶやきを空気振動に変えて放出してしまう。
それに驚き、ベルが悲鳴をあげた。
『ベル、平気だ。それとチェレン、鼓膜が、張り裂ける』
目覚めたチェレンはフォアイトとベルの肩に担がれながら引きずられていた。
耳元で叫ばれたフォアイトは急に発狂の領域に踏み込んだチェレンに白い目を向ける。
『はぁ、はぁ、ここは…』
『何言ってんだよ。カノコタウンだ。研究所の前』
状況の掴めないチェレンはキョロキョロと辺りを見渡す。
オレンジに染まりきったいつもの景色がほのぼのと広がっていた。
『ハイヒールぶつけられたのにやけに平気そうにしてるなーと思ったら、いつの間にかネガティブ化してたのな、お前。元に戻すのに苦労したわ』
『そうそう、アララギ博士もてっきり大丈夫だと思っててね、チェレンがネガティブのまま色々大事なこと喋ってたけど…覚えてない、よね…』
嫌味ったらしく両目を細めたフォアイトの反対側から、遠慮がちに覗き込むたんぽぽ色が、仕草に似つかわしい声色でそう確認する。
なんてことだろうか。
どうやら、気絶したと思っていたものがネガティブの自分に体を乗っ取られしかも、あろうことかアララギ博士の『大事なコトバ』まで聞き逃してしまったらしいチェレン。
数ヶ月も前からこの日を待ち遠しく思っていた彼は、旅立ち前の清々しい緊張感を根こそぎ奪われたように錯覚し、かつて無いほどのやりきれない気分を感じてうなだれた。
『そ、そういえば、僕のポケモン図鑑は!?』
彼が纏わり付く気だるさと、沈みゆく気分を振り払い、やっとこさ自分の足で体を支え、間髪入れずに叫んだのはそれからしばらく経ってから。
見慣れた故郷の景色が、橙を通り越して藍色に染まってゆくなか、彼の悲痛さを含んだ声は必要以上に哀れに思えた。
『あぁ、なんかお前、ありがとうございますとか言いながら、受け取るなり口の中に入れてたけど、あの後、どうした?』
フォアイトがさらっと衝撃の一言を放つと、チェレンは一気に青ざめ、その場に膝をついた。
なんせネガティブになった自分は何をしでかすかわからない。
以前ネガティブ化したときなんか鉛筆を鼻の穴に詰め込みながら街の隅々を巡回していたようだし、この間なんか家という家に上がり込んで、自宅のゴミ箱の中身を売りつけようとした事まであったのだ。(例によってチェレン自身がこれらの事実を知ったのはフォアイトの制裁によって気を失った後、目覚め直後に行われた状況報告にて)
まさか、そのまま…。
『もう!フォアイト!それ以上チェレン追い詰めたら可愛そうだよ!平気だよ、チェレン。フォアイトが嘘ついてるの』
愕然として自分の胃の辺りを押さえるチェレンに、ベルは横から、彼にとって頼むからそうであってほしいと思っていた言葉を発する。
ハッとして声とは反対側を見上げた先で、当のフォアイトは白々しく目を反らしながら口笛を吹き、ベルの発言を進んで裏付けていた。
その様子を自白と認めたチェレンは言うまでもなく腹を立てたが、文句の一つでも浴びせてやろうと開いた口内は、今になって痛みの信号を顕著にし、喉元まで登り詰めていた恨みつらみを蹴落とす。
頬を押え、呻きをあげて膝を突く彼に再び、ベルが無事を確認する言葉をかける。
チェレンは二言ほどでそれに肯定したが、鉄の味を伴う辛みのような痛覚は、なおも彼を襲い続けた。
『はい、チェレンのポケモン図鑑。なんか色々説明されてたけど、あたし、覚えられなくて…ごめんね』
やせ我慢をついに看破されなかったチェレンの、痛みによって軽く歪められた眉間におずおずと差し出された長方形の機材。
ポケモン図鑑は、彼の複雑な心境は気にも止めず、正常に稼働中を告げる点滅を繰り返していた。
チェレンはそれを、ありがとうと言って受け取ると、今度こそフォアイトに談判を入れようと立ち上がる。
『いたいた!フォアイトー!博士の話はどうだった?』
『たぶんねー!』
そこに、幾億もの花弁を擁するような笑顔を振り撒きながら問答する彼らに近寄るなり声をかける陰が二つ。
フォアイトの母親のマザコと、彼女の相棒、タブンネのハナちゃんである。
やわらかな微笑を浮かべながら包み込むようなトーンで話す二人の放つ包容力は凄まじく、それは基本無愛想なフォアイトが彼女らと寝食を共にしているという事実を疑うほどに断続的だ。
そんな二人がルンルンとこちらに向かってくるのを目の当たりにして怒りを持続させるほど神経に横幅がないチェレンに、煮えたぎる猛りが脱力感に変わっていくのを止めることはできない。
リアルタイムで反撃のチャンスが失われていく中、変に抵抗を続けるよりもこのまま無問題とする方が得策だと彼が気づくのに、そこまでの時間は要さなかった。
『まるでどこか違う世界に存在するような基準も法則もない呪文のような言葉を話してたよあれは人語なのかい母さん知ってる?』
お手本のような真顔はさすがと言うべきか、眉一つ動かさずに棒読み、そして一息で言い終えたフォアイトの発言はまさに呪文のよう。
『そ、そんな変なのじゃあ無かったよう…確かに聞き取りづらかったけど…』
突拍子もない彼の発言をベルが補正する。
が、どうやら解読難がいくらか付き纏っていたこと自体は確かなようだ。
何も聞いていない、正しくは聞けなかったチェレンは、下を向きながらだんまりを決め込む。
『あらあら、あの娘ったら、またいつもの癖が出たのね。ホント、こういうときくらいは無しにしてほしかったわ』
アララギ博士の昔からの知り合い、もとい先輩トレーナーだったマザコは苦笑しながらそう言った。
彼女らの関係ははっきりとはしていないものの、取り合えずそれなりに仲はよく、立場的にはマザコの方が僅かに上らしいことは、彼女らの普段の発言から伺える。
『それより、それポケモン図鑑?もしかして、図鑑の完成をお願いされたんだ!すごーい!』
『なーんてね、だろ?』
チェレンの手に収まっているポケモン図鑑を目ざとく見つけ、わざとらしく拍手して見せた母親に向かって、呆れたように言葉を返すフォアイト。
『あらら?ばれてた?』
そんな息子のリアクションにも大袈裟に驚いて見せた母。
その様子に軽く憤りを覚えたフォアイトは、帽子の上から頭を掻きながら早口で話し始める。
『今回のアララギからの俺達へのポケモンプレゼントも、図鑑完成の旅へ出てほしいって依頼も、俺らの両親一同が全部裏で糸引いてんのは、俺も、多分チェレンもベルも感づいてるよ。あと、それを頼まれたアララギがすごく嫌そうな顔したのも』
軽く睨みを利かせた目でマザコを見つめながら話すフォアイトの隣で、チェレンも彼女を見ながら軽く頷いた。
当のマザコはと言うと、さすが私の子供!勘が鋭いわ、と満足げである。
隣ではハナちゃんもたぶんねーと嬉しそうに拍手していた。
『ええぇっ!?そんなだったのぉ!?』
ただ一人こんな事感づくわけもない、疑いすらしなかったベルが驚きの声を上げ、隣にいるフォアイトが前言撤回を目で訴える。
続いて、チェレンのため息。
再び騒ぎはじめた彼らを見つめる母親は、うっすら目を細めるとクスリと小さく笑った。
次第に日が、遥か西に向かってめり込んでいっていた。
微笑む母の顔色が僅かに冷え込んだのを、背後の窓から覗く後輩だけが、その双眼に捕らえていた。
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