夕陰草
影見えて08
心臓が暴れて、他の音が遠くに聞こえる。
聞き覚えがあるはずだ。

ーー洋兵。

ちらりと要を見る目が、冷たく揺らいだように感じる。
若江に促されて、洋兵と共に入ってきたもう一人の担当者にぎこちなく挨拶をした。名刺を交換する手が、身体が震える。

この震えは、なんだろう。
この動悸は、なんだろう。
怖い……?
怖いのとは違う感覚。
気持ちが畏縮していくのが分かる。

座るように促されて、要は壊れた機械のように動く。そんな要に異変を感じたのか、若江が訝しげな視線を送ってくるが、若江は仕事中だと割り切って、そんな要を放置して早速打ち合わせに話を持ち込む。

ーー洋兵。

あの夏の終わりに、要を手酷く扱い姿を消した洋兵。少しも変わらない精悍な顔つき。夏の陽に焼け鋭気に満ちた瞳。
要の耳に届くのは自分の心臓の音だけで他には何も聞こえない。世界が真っ暗になった気がする。

打ち合わせは10分程度で軽く終わった。その間、要の発言する機会がなかったのは幸いだった。
打ち合わせの間、洋兵がじっとこちらを見ていた気がする。突き刺さるような鋭い視線を前に、要は成す術もなく身を縮めることしか出来なかった。

どうやって洋兵の会社を後にしたのか記憶にすらない。若江に酷く怒られたのは仕方の無いことだ。集中しろと、仕事だと怒られた。要は素直に謝る外はない。
若江はまだ外回りで行くところがあると言い途中で別れて、要は一人で会社に戻ることになった。

動悸がおさまらない。
この案件、降りた方がいいのかな?
でも理由は?
……だめだ、上手く言い訳できない。

要は深い溜め息を吐いて、気持ちを落ち着かせようとする。とぼとぼと途方に暮れたように歩き駅へ向かう。

昼を少し過ぎた時間帯の街は、要のように外回りしているサラリーマンが多い。タクシーは客を探して巡回し、バス停には時刻を確認しながら待つ人。買い物袋を下げた主婦や若者の話し声はどこか遠い世界のようだ。

地下に潜り改札を抜けてホームに降り、滑るように入ってきた電車に乗り込んだ。座席には座らずに釣り広告をじっと見る。
今売りだし中の書籍や開催中のイベント、そしてはじめて手掛けることになるマンションの広告。
要は頭を切り替えるように、首を降った。どちらにしろ要が洋兵と接触することはこの先殆どないだろう。冷静になればそれくらいは理解できる。なら、頭を切り替えるしかない。

電車を降りて地下から上がると、真っ直ぐに会社へ戻り、自分のデスクに着いた。
なんだか酷く疲れていて、直ぐにパソコンに向かう気になれなかったが他にも抱えている案件はある。悠長にはしていられなかった。


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