夕陰草
ぬばたまの夜09
洋兵の機嫌をあれ以上損ねたくなくて、なるべく早く帰れるように足を走らせていた。緊張のためか耳の奥では心臓の音が響く。今更、甘い言葉とか優しさなんて期待しない。それはつまり2人の心の距離でもある。
マンションに着くと、タイミングよく来ていたエレベーターに乗り込む。じんわりと言葉にならない焦りと不安が交錯する中、エレベーターは指定階に着いたことを知らせた。
要はドアノブを前に、深呼吸をして玄関を開けた。洋兵の見慣れた靴。他に誰かが居ることはないと少し安心する。
「……洋兵? 」
部屋には風呂上がりの良い匂いが漂っていて、洋兵が風呂場付近に居ることが分かる。自分の家だと言うのに、洋兵が帰って来ていると言うだけで落ち着かない。
どうしようかと逡巡してる間に、風呂上がりの洋兵が戻ってきた。チラリと一瞥されただけで、洋兵は冷蔵庫を開けて水をらっぱ飲みする。
「……あ、ただいま」
ぎこちなくそう言えば、素っ気ない返事が帰ってくる。
「風呂入ってこいよ……」
「……うん」
言われた通り、逃げるように風呂場に行く。
今日はどうしたのだろう。普段と少し違う態度に違和感しか覚えない。付き合った当初なら考えられた行動は、今では記憶の中にしかない。
手早くシャワーを浴びて、風呂場から出ると、煌々と付いていた電気は消され、廊下とキッチンの微かな光に照らされたリビングに洋兵は座っていた。生乾きの髪に、首に掛けられたタオル、こちらをじっと見る目。以前ならそういう姿もいいなぁ何て思ったりしたものだ。でも、今は……。
「こっち座れよ」
洋兵の意図が読めず、どうしていいか分からなかった要は、声に従い隣に座った。
そっと伺うように見れば、無表情に要を見ている視線とぶつかる。逸らそうとした視線は、動き出した洋兵を追ってしまう。
床に無造作においてあった紙袋を漁り、洋兵は小さな箱を取り出す。
「これ、やる」
「あ、ありがとう…………これ、は? 」
反射的に受け取り、礼を言う。
「今更だけど、先月……誕生日だっただろ」
洋兵の言葉に思い出したくない記憶が呼び覚まされる。28回目の誕生日は、無惨な出来事によって踏みにじられた。
喉がカラカラに渇く。
箱を手に固まっていると、洋兵の声が思ったよりも近くで聞こえた。
「あんまり、嬉しそうじゃないな」
哀れむような、悲しい声色だ。どんな顔をしているかなんて、顔を上げて見ることも出来ない。要は俯いたまま、箱をじっと見つめていた。中身が何かなんて考える余裕もない。動悸が激しくなって、無意識に呼吸が浅くなる。
洋兵は、そんな要の様子に重い溜め息を吐いた。
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