夕陰草
ぬばたまの夜04
ハッと気が付いてとっさに時計を確認する。夕方の六時を回ったところだ。
夏の終わり、最盛期に比べれば陽が傾くのが少し早くなっているのか、赤い太陽の陽射しが暑かった。
もう少しで洋兵が帰ってくる。軋む身体をゆっくり動かしてソファから立ち上がると洗面台で顔を洗った。軽く身支度を済ませて家を出るのは、そわそわして落ち着かないからだ。

はじめは食事の用意をしたり、家で帰りを待っていたり、ご機嫌を伺うように笑顔で話し掛けたり、兎に角改善しようと要なりに頑張ってみたのだが、その行いさえも重荷になったのか、洋兵の行動は悪化する一方で、次第に要は家を空けるようになった。なるべく刺激しないようにするには、自分が居てはいけないと思ったからだ。
それでも帰らないわけには行かないから、結局顔は会わせるのだが、それでも寝静まった頃にそっと帰ったり、会社に泊まったりしていた。

どこをブラつく予定もなく、気がついたら会社近くまで来ていた要は、行動範囲の狭さに笑うしかなかった。

ビジネス街のこの辺りは少し角を曲がれば仕事帰りのサラリーマンが寄りそうな大衆向けの居酒屋が。表通りにはOLが立ち寄りそうなカフェと、昼食を提供してくれる軽食屋、それに混じり古風な昔ながらの喫茶店が点在している。

要は行き交う人の流れに逆らわず、職場から少し離れたコーヒーショップへと入った。
ひんやりとエアコン効いた店内の温度にホッとする。
濃い茶色と乳白色で統一された店内は、雰囲気も然ることながら客足も落ちつているようだ。邪魔にならない程度にボリュームを上げられた音楽が心地好さを演出している。

「いらっしゃいませ」

声のかかった方を見やると、少し掘が深くてキリっとした眉に通った鼻筋の少し薄い唇の端正顔立ちの男性がニッコリと笑っていた。あまりにも綺麗で、要はその男性に見惚れそうだった。

「空いてる席へどうぞ」

席へ促す言葉に、ハッとして適当に席についた。その瞬間、体に溜まった疲れが全身に重くのし掛かる。 痛め付けられた身体はボロボロなのに、フラりと家を出てからぼーっとしていたら会社までの距離ーー駅にして3駅分ーーを歩いていたのだ。腰から下がジンっと痺れる。

「ご注文は何になさいますか?」

低音の優しい声色はとても耳に心地よく響く。ずっと、聴いていたいと思える深く澄んだ声だ。
テーブルに水とおしぼりを持ってくる動きさえ、洗練されてスマートに見える。

幾らか考えた後要はアイスティーを頼んだ。

「畏まりました」

ふんわりとした笑顔は、要の心に沁みる。
下がって紅茶を準備する姿を目で追ってしまう。客に対しての笑顔だと、頭では理解しているのに。柔らかな笑顔を向けられたのが余りにも久しぶりで、要は少し動揺していた。

如何にも出来る人間って、こんな風に何をさせてもそつがなく器用なんだろうな、と。

俺もあんな感じだったら、もう少し洋兵との関係も変わっていたのだろうか。少し大事にされていたのだろうか。最早、自分とは無縁のものに想いを馳せる。

時計に目をやって、要は今の時刻に少しだけビックリした。夜の7時を回っている。入っても……良かったのだろうか?

「お待たせいたしました、アイスティーです」

柔らかな声に、要は戸惑いながら口を開いた。

「あの……」
「はい、何でしょう?」
「此処って何時までですか?時間を見ずに入ってしまったので……」
「8時までですよ。ラストオーダーは30分前に閉めますが、7時以降はバイトも皆帰っちゃいますから、臨機応変にね」

ふふっと笑う笑顔はとても綺麗だ。女っぽい訳ではなく、男らしさが逆にその綺麗さを引き立たせていた。

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