長夢
3
本当に、唐突な出来事だった。
親に「おやすみ」の挨拶をしてベッドに入って、目が覚めたら見たことのないところだった。
6歳だった僕は状況が呑み込めなくて(今でも無理だろうけれど)、ただただ歩き回った。
「おかーさーん…おとーさーん…おにーちゃーん…!どこー…?」
知らない場所を、歩いて。歩いて。
次第に涙が浮かんできた。
体力的にも、精神的にも、限界だった。
2時間ほど歩いた僕は、知らない家に背中を預けて、膝を抱えて静かに泣いた。
すると。
「どうしたの?」
頭上からかけられた知らない声に、ふと、顔を上げる。
泣きはらした目に移りこんだのは、長い茶髪を後ろで一つにまとめた、黄緑色の着物を着た男だった。
男は、僕の前にしゃがみ込んで、心配そうな顔で、僕を見つめた。
これが、かの有名な松尾芭蕉だったということは、当時、僕は知らなかった。
「迷っちゃったの?」
男は僕の頭の上に右手を置くと、優しくなで始めた。
「怖かったね。よしよし」
「…っ」
僕はその時、いともたやすく、この男…芭蕉さんに心を開いてしまったんだ。
その後は、芭蕉さんの家に、一旦上がらせてもらい、質問されたことに答えた。
自分の名前、何処から来たのか、自分の格好のこと。
大半の質問が理解できず首をかしげたが、芭蕉さんは嫌な顔ひとつせず、僕にひとつひとつ問いかけてきた。
「じゃあ、彼方君は、未来から来たんだね」
「……たぶん…」
「そっか。どうやって帰れるか……なんて、分かってたらとっくに帰ってるよね…」
苦笑して、溜息を吐く芭蕉さんを、不安げに見つめる僕。
暫くすると、芭蕉さんは、「よし」と手をたたき、立ち上がった。
「帰れる方法がわかるまで、私の家に泊まっちゃわない?」
「いい…の…?」
「うん。むしろ、大歓迎だよ!あ、そうそう。言い忘れてたけど、私の名前は、松尾芭蕉だよ。これからよろしくね」
そして、また頭を撫でられた。
僕は、芭蕉さんの温かい手や、笑顔が大好きだった。
こうして、6歳の僕は、未来に戻れるまで芭蕉さんの家で暮らすことになった。
「あぁ、それとね。ちょうど、君に年の近い……うん。まあ、私に比べれば近いってだけだけど…。
12歳の男の子も、ウチでは預かってるんだ。仲良くしてくれるかい?」
「…うん」
仲良くなれるか、少し不安だったけど、とりあえず返事をした。
すると、芭蕉さんは笑顔で頷いて、「おーい、曽良くーん」と、名前を呼んだ。
間もなく、足音が聞こえてくる。
少し、自分の鼓動が大きくなった気がした。
「なんです?」
顔を出したのは、端正な顔をした、だけど無表情な男の子だった。
男の子は、僕をチラリと見ると、すぐ芭蕉さんに目を移した。
「今日から、ウチで預かることになった、菅波彼方君だよ」
僕は、少しだけ頭を下げる。
「曽良君は、お兄さんなんだから、面倒みてあげてね。この子の事情は、また今度、説明するから」
「嫌ですけど?」
「うそん!?松尾バションボリ…」
「嘘ですよ。分かりました」
頷いた男の子は、正座している僕の前に、腰を下ろした。
「河合曽良です。よろしくお願いします」
「菅波彼方です…」
綺麗な男の子だなぁ。それが第一印象だった。
芭蕉さんは、そんな僕たちの様子を微笑みながら、見て、慌てて、立ち上がった。
「あ、じゃあ、私、ちょっと用事があるから、曽良君、一緒に遊んであげててね」
「はい。…では、行きましょう」
「………」
僕は無言で立ち上がると、慌てて河合さんの後を追った。
それから、僕たち3人の生活は始まった。
「年上の人や、目上の人には、敬語を使いなさい」
「箸ぐらい、正しく持ちなさい」
「男のくせにすぐ泣かない」
河合さんは、苦笑する芭蕉さんに「そこまで言わなくても…」と言われながらも、僕に礼儀や作法を叩き込んだ。
そのおかげか分からないけれど、今でも近所の人などに「礼儀正しいね」と褒められる。
まあ、そんなことはおいておき。
そんな日常を送っていると、徐々に、僕の中での河合さんや芭蕉さんの存在は、大きくなっていた。
特に河合さんは、僕のあこがれの人でもあった。
後々、河合さんの口調を僕はマネて、誰にでも敬語で話すようになった。
表情も似せているうちに、だんだんその状態が楽になっていた。
なぜそこまでしたか、なんて…理由は簡単。
まんまと惚れていたのだ。河合さんに。
初恋に気づいて半年、この世界に来てちょうど1年ほどたつその日の夜に、いつものように二人で一緒の布団に入っていた。
そして、その日僕は決心を決めて、とんでもない告白をした。
「…僕、大きくなったら曽良さんと結婚します」
今考えれば、何てことを言ったんだろう、なんて思ったりする。
だけど河合さんは、少し驚いたようにキョトンとしたけど、
「…へぇ。楽しみにしてますね」
と薄く微笑んだ。
そうして、河合さんは僕の額にキスを落とした。
そして、次の日の朝。
目が覚めたら、久しぶりに自分の部屋にいた。
1年前とは逆で、今度は家中、河合さんと芭蕉さんを探し回った。
けれど、リビングに行くと、1年ぶりに見る家族の顔があり、同時に涙がこみ上げてきた。
家族と再会できて嬉しかったからと、もう二度と、あの二人には会えないと思い悲しかったから。
母さんに抱き着いて、泣き喚いた。
そしてなぜか、現代ではまったく時間がすすんでおらず、日付は、僕が布団ではなくベッドに入った翌日だった。
あの3人で過ごした日々は、長い長い夢だったんじゃないかと思うほど、1年前と変わっていない現代の世界。
幼い僕は、いつまでたってもあの日々が忘れられず、いつまでたっても、河合さんに淡い恋心を抱いていた。
そして、11年たった今。
ようやく、河合さんへの思いも吹っ切れた頃に。
…僕は、河合さんと再会した。
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