幸浦と仕事をして、オフィスでの書類業務をこなし、疲れた体で神在は朝の電車に乗り込んだ。 ―――やっぱり、職場から二駅で家って魅力よね。 友人の葉山が職場から二駅で家につくと話を聞いたばかりの神在は、自分の家の最寄り駅を路線図で見つけて顔をしかめる。 そんなことを考えながら、朝の電車内を見渡した。 土曜日のせいか、いつもより人はまばらで、電車が苦手な神在も少しは寛げる。 うなじが汗ばんでソバージュがかった髪を煩わしそうに両手でかきあげる。そんな時、幸浦から携帯にメールが着信した。 [事務所の近くで事件あったみたいよー 帰り気をつけてね] 気をつけるのは幸浦さんもでしょう、と思いつつも、返信を返す。 [私はもう電車ですー。幸浦さん、もしやまたパチスロですか?幸浦さんこそ帰り、気をつけて下さいね] 携帯を閉じるとiPodの曲を変更し、神在は今日帰宅してからの予定を頭の中で立て直すことにする。 (出掛けるのは、来週にしよう) 幸浦にも気を遣って貰ったので、気休めだが出掛ける予定はキャンセルして月曜まで体を休める事にした。 電車を降りてから近くのコンビニに寄っていくと、きさくな女性店員がいつものように、神在の手のひらの下に手をおいて、お釣りを返す。 全て、見慣れた日常。 「ただいまー」 誰がいるわけでもないマンションの一室に、声をかける。一人暮らしを始めて2年近く経つはずなのに、彼女にはこの習慣が、なかなか抜けないものらしい。 すぐにシャワーを浴びて着替えると、仕事の疲れからか、彼女はベッドに倒れて泥のように眠った。 *********** 濃密な藍色の空間。 ぼんやりとした彼女はゆっくり辺りを見回した。 藍色の豪奢な椅子が、テーブルを挟んで対面にある。その奥に一つのスライド式の扉があり、縦に長い部屋のようだ。 天井を見上げれば、弓形に曲がっており、両端に小さな灯りが整然と並ぶ。 部屋全体からガタガタと車輪の廻る音がする事に気付いて、彼女はふと周囲を見渡す。 神在はテーブルを挟んだ反対側に座らされており、自分の後方にも長い空間と扉がある事を視認した。 ―――電車、みたい。 後ろを振り返ったまま、そんな感想がよぎる。 何故か、この誰もいない空間は流れる時間帯も曖昧に感じられ、彼女は立ち上がる気になれないでいた。 「新しいお客様ですかな」 神在は急いで自分の対面にある椅子へ体を向けなおす。 そこには、誰も居なかったはずの椅子に、この部屋の主人が座っていた。 人形のように長い鼻と飛び出かけた目玉、両側にだけ少しある白髪、黒い燕尾服を着こなし、両手の長い指を組んで細く長い足に肘をつき、背中を丸めている老人。人型はしているが、人間ではなく、異形のものだと、神在は本能で察知した。 主人の隣には、いつの間にか執事らしき、長身で金髪の男が佇んでいる。 裂けたように長い唇の端を歪ませた笑顔で主人は話始めた。 「御機嫌よう、お客人。現実と虚の狭間、ベルベットルームへようこそ」 一拍置いて神在をしげしげと見つめると、甲高い嗄れた声で主人は告げた。 「申し遅れましたな。私は、このベルベットルームの主人、イゴールと申します」 以後、お見知りおきを、と見た目に似合わぬ甲高い嗄れ声のまま目礼される。 神在が言葉を発する前に、イゴールと名乗った老人は神在を見詰めて続けた。 「もし、宜しければ、御名前を伺えますかな」 躊躇いよりも、戸惑いを覚えながら、神在はようやく声を出す。 「神在…結衣子、です」 結構、結構、と喜ぶ主人。 そっと執事に目配せしたと思えば、執事はいつの間にか神在の前にワイングラスのようなものを配膳した。 銀のトレイを左に抱えて、男は恭しく一礼する。 「オーギュストと申します。御用命は何なりとお申し付け下さいませ」 切れ長の碧眼が優しく微笑む。 はぁ…と、溜め息とも相槌ともとれる返事を神在が返すと、オーギュストは颯爽と主の横に気配を殺して佇み直した。 「さて、貴女が此処を訪れたのは偶然ではありません。此処は、契約を結ばれた方だけが訪れる場所…、そう、貴女が契約を果たすために、私共が力添えをさせて戴く為の場所なのです」 イゴールの言葉は神在に鮮明に刻みつけられてゆく。反論する余地や余裕はなく、ただ、それが真実だと知らされるのみ。 「まだ、貴女は契約を結ばれる前のご様子…。それでは、ひとつ、貴女が何の為に此処を訪れるに至らせたのか、占いでもしてみましょう」 イゴールの白い手袋をはめた手のひらが、テーブルに向かって右から左に空を切ると、光と魔力を帯びたカードが一列に並んだ。 もう一度、イゴールの左手が円を描くと、バラバラとカードが散らばって規則性を帯びた円を描いていった。 「では、過去のカードから…。ほう」 捲られたカードはタロットカードの刑死者の正位置。 「続いて…現在は、愚者の正位置、近い未来は…審判の正位置…そして、その結論が齎すカードは…おや?」 歪んだ笑顔しか浮かべない主の顔に初めて焦燥が浮かぶ。 「お客人、いままで気の遠くなる程長い間、色々な方々を見てきましたが、こんなことは私にも初めての出来事です」 神在も女性なので、占いは少し位はわかる。ただ、今まで出て来たカードが悪いカードである事も。だが、それ以上にこの主の焦りが神在の背を冷やして行った。 「カードが重ねられて二枚あるのです」 イゴールはそっと、一枚ずつ、丁寧に神在の前に捲って浮かべた。 「死の正位置と、世界の正位置。異なるようで非常に近い意味もございます」 そこで、一旦話を区切ると、改めて部屋の主は両手を組み直して神在を見詰めた。 「貴女は既に試練の中に立たされていたご様子。そして、それでも立ち上がり続いる貴女に大きな転機…いや、謎が訪れるでしょう。それが何らかの結論に至る…」 躊躇いもなく、最後のカードを神在の目の前に並べ、主人は続ける。 「人間は、すべからく死すべき定めの輪の中におります。ですが、貴女の決断がひとつ違うだけで、貴女は近い未来の崩壊に起因して貴女の旅路を不本意ながら終えてしまうようです」 「死ぬ…の」 漸く神在が言葉に出来たのはそれだけで、声を出したくとも出せないでいた。 「左様、しかしながら、貴女の決断ひとつで、全てが解決し、謎は全て解明され、今までの試練すら乗り越えられるようです」 そこで主人は二枚のカードを見比べる。 「貴女に課せられたものは『決断すること』のようです」 「それが何を示すかはまだ試練の中にあり、貴女には気付けないでしょう。ですが、近い未来、必ずもう一度貴女のお目にかかる時がくるようですな」 神在の目の前が段々と朧気になっていく。 「では、その時まで御機嫌よう…」 執事は神在へ恭しく一礼をし、両手を組んだ主人は歪んだ笑顔のまま微動だにせず、神在を見送った。 *********** 降りしきる雨。 深夜0時直前、何気なく神在は体を起こして煙草に火を付けた。 ―――変な夢を見た 今でも現実に起こった事のように先程の藍色の空間を思い出せる事に彼女は夢だと頭を振った。 もう一度煙草を吸うと、酸素が足りなくなり、余計に煙を吸い込んで彼女は少し噎せた。 何かを諦めたように、神在は電源の入っていないテレビをただ茫然と見つめる。 ふと、テレビが光った気がした。 気のせいかとコーヒーを淹れると、テレビからアナログのような砂嵐の音が薄く聞こえ始める。 ――人影が、映りこむ。 有り得ない出来事に、神在は急いで携帯の時間を確認した。 ――午前0時。 人影は男性らしく、ふらふらと歩いている。歩く時の癖なのか、軽く、踵を引きずるようにして。顔や服装は画像があまりにも不鮮明で判別がつかない。 神在が食い入るように見つめている最中、いつしか、その映像は途切れていた。 「なにあれ…」 薄気味悪くなった彼女は、テレビの調子がおかしくなったのかと、テレビの画面に触れた。 水音を立てて、テレビの画面に波紋が広がる。神在の指先がテレビの液晶部分から、その中へ入り込む。 気持ち悪くなって急いで手を引き抜く。だが、好奇心に負けて彼女は片腕をテレビの画面の向こう側へと差し込んでみた。 「入、る…」 右手をテレビの枠に捕まらせて、顔をそっと画面へ近づける。 ぶつかる、と目を閉じていたが、案外すんなりと顔を入れることが出来た。 恐る恐る目を開くと、何かわからないが、彼女の眼前に大きな空間が広がっているのが確認出来る。しかし、テレビの中は霧が深く、遠くまで見通すことは不可能だった。 それ以上は本能が危機感を告げて、テレビの外へ戻る。 ―――あれがマヨナカテレビ? まだ夢を見ているのかもしれない。そう思い直すと、煙草のフィルターまで火種が届きそうな煙草を灰皿に押し付ける。眠くもない体を強制的にベッドへ潜り込ませる事にするのだった。 *********** ―――――夢。 自分自身で、はっきりと理解出来る夢。 3M先も見通せない濃霧の中で、彼女は何故か片手で振り回せる剣を握っていた。 違和感は、全くない。 見えはしないが、眼前に居る筈の強大な何かを感じ取って、身を堅くした。剣の柄が、あまりにも手に馴染む。重さは夢だからか全く感じ取れない。 緊張の余り、思っているより力が入りすぎているだけかもしれないと、彼女は自分の手元を目の端で確認した。 刹那、気配が近付く。彼女は剣を構え直した。 ―…ここで、キミは自分を保っていられるんだね どこにも壁などないはずなのに、その声はひどく反響して、どこから発せられているのか、性別すら、判断がつかない。 ―…思った通り、逸材だよ 神在は助走をつけると、薄く見えた影へ向かって思い切り斬りつける。影は揺らめくだけで、静かに笑っているようだった。 ―…キミの世界は、こっちだよ 手招きするように影はまた揺らめく。 (こんな濃霧じゃなければ) 彼女は自分に舌打ちすると、跳ねるようにして距離を置く。彼女が深呼吸して目を閉じると、足元から円陣を組むように光が溢れ出し始める。足元から強大な力が溢れ出して、彼女の長い髪は空へと持ち上げられた。 彼女の唇は、詩を謳い始める。光は音楽を奏で始めて、歌が構築された。それが何の儀式か、彼女は自分の体が知っているのを感じた。 彼女は叫ぶ、自らの混沌の海から生まれたもう1人の自分の名前を。 「………!」 異形のもう1人の自分は、揺らめく影へと炎の塊を投げつけた。 確実に当たった事を確信しながら、神在は詠唱を辞めない。彼女が謳っている間は、常にもう1人の自分が攻撃の手を止めないでいられると解っているからだ。神在の謳に合わせて、連続するように炎を躍らせ続ける異形の者。 相手の動揺は見えず、むしろ、歓喜にも似た声をあげた。 ―…すごい、スゴい! こんな力の在り方見たことない! やっぱり、キミでよかった、と影は愉悦する。 神在が一曲謳いあげると、足元から生まれていた光の渦は緩やかに消えていき、異形の者は姿を消す。 神在は体制を整え、剣を構え直した。だが、影は段々と遠くなり、その必要はないと知らされる。 ―…また、逢おうね 彼女の目前は濃霧と静寂に支配され、暗闇へと落とされた。 *********** ベッドからゆっくりと体を起こす。サイドテーブルに乗った目覚まし時計を見つめれば、眠り直してから4時間程しか経っていない事が解った。 昨日の飲みかけのコーヒーカップを眺めながら、煙草の箱を探す。箱から一本タバコを抜き取り、手元にあったライターで火をつけた。 一息吸うと、煙を吐き出すように溜め息をひとつ吐いた。 「ファンタジーにも程がある…」 彼女は、妙に鮮明に覚えている夢たちを頭から振り払い、体を目覚めさせるためにシャワーを浴びることにした。 |