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人を好きになんてなれない。
これは神在結衣子が出した、いつかの結論。
好きというより、お気に入りに近い感情でならば、人と交際した事はある神在。だが、彼女の壊滅的な恋愛遍歴は人を好きになることに充分な畏怖を抱くものだった。実は、男性恐怖症にならなかっただけでも幸運かもしれない。
初めて愛した恋人に先立たれ、実の兄からの強姦、家庭内で父親に振るわれ続けた暴力、一人で暮らすようになって普通とも言える交際をしたものの、いつも彼女を取り巻く環境はそれを許さない。そして、ようやく立ち直りかけた一年前に赤坂という男との出来事。
どれを取っても、彼女には男性を心の底から信用するには辛い出来事ばかりだった。
「充…さん」
ベッドの上でだけ赤坂の下の名前がこぼれた記憶は、まるで自らに知らない名前を呼ぶことが出来ないように縛る鎖だった。
赤坂という男はいつも飄々としていた。無感動で無表情な男、と周囲からは評されるが、それは職場でだけの話であり、神在に取ってみればひとつ年上のやんちゃさが出たよく笑う青年だ。
天然のクシャクシャな短めの髪に、少しだけ焼けた肌。縁の厚い黒縁眼鏡の奥には、眠たそうな二重の瞳、いつも口角を上げているため覗く八重歯。
土砂降りの中で、神在に愛してると囁いた傍ら、その当時神在には別れきれないでいた恋人がいると知って、神在の友人からの告白を受け、彼女にした。
神在が恋人と別れたのを知った後で、友人と別れ、いつの間にか繰り返された赤坂との逢瀬。
―――まるで、抜けない棘、ね
幾つも連鎖する運命の輪。
(純粋に人を好きになんて、なれないなら、もう、好きになるなんて止めよう)
彼女は自分を守る為に赤坂との連絡を絶ち、同じ職場から新しい支店開店の際に転属を願い出た。港北支店に今彼女がいるのは、ルーキーとして転属したのであり、責任者フラグを取得するようになったのは港北支店に来てからの事だった。
―――あの人と同じになりたくて、なったんじゃない。仕事で自分をいっぱいにしたかっただけ。
彼女はいつも、仕事をひたすらに駆け抜けて、ただただ、利益を出し続けてきた。既に先輩責任者が出してきた成績を抜き、利益を出し続けるのは大変な努力と体力がいる。そして、更に仕事は苛烈を究めていく悪循環。
彼女は常に仕事に追われてきた。
それは、神在の望み通りであり、叶わない願いの代わりに叶った唯一の希望。
―――誰も好きになれない
だから、と彼女は1人心を閉じる。いつも笑顔で優しくいるのは、自分の心の盾。明るく笑うのは自分の心の隙を突かれない為。
―――笑っていれば、大丈夫
彼女の氷は、まだ、溶けない。
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本牧は、非常に人見知りが激しい。
携帯の中の番号など自宅や今の会社と前の会社などを含めても、4年は使用しているのに、80件前後程しかない徹底ぶりだ。
友人も、小学校からの気が合う友人2人以外はその時の同僚位としか遊ぶ事がない。
仲良しと一緒に居ても、知らない人間が1人でもいれば全く口を開かない、というのが本牧という人間だ。
これは、数年前の本牧の話。
「周一ってさ、面倒くさくなるとすぐ連絡とれなくなるんだもん」
別れよう、と交際して半年の彼女に告げられた。飽きたんでしょ、もうヤダ、と。もう違う彼氏がいるから連絡しないでね、とダメ押しまで食らって。
彼はその日の内に携帯を替えに行き、彼女の携帯番号のメモリを消した。浮気をされている気はしていたのだが、彼は問い詰める事もせず、段々と連絡を断っていった。
『別れよう』と言われた時も、あぁ、と一言漏らしただけで、他は何にも言わなかった。
彼女にしてみれば「そういうとこも嫌い」というわけだが。
実際、彼は自分で告白した事などなく、ほとんどは相手から言われるに任せている。そしていつもこう終わるのだ。
それから暫くは女っ気のない生活をしていた為、恋愛とは無縁の人生を送っていたが、別にそれはそれで彼には問題のない出来事だった。
彼女と別れてから、なんとなく、大きな液晶テレビを買った。貯金はかなりあったのであまり気にならなかったが、彼にしてみれば無意識に自分への慰めだったのであろう。本牧は仕事と友人と会う以外はこの大きなテレビを見て過ごした。
それから数年、5年働いた会社を辞め、半年呆然と実家で過ごし、今の会社に至る。
興味の無い人間には話し掛けたくない、知らない人間には傷つきたくないから話したくない。…特に、女性には。
本牧周一は、慣れてしまえば明るい人間だが、それまでがかなり気難しい人間だと言えた。
「…暇だな」
彼の退屈は、常に終わる事がない。
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“港北署、強行班所轄警部補”
それが、上層部から夏川大輔に与えられた使命だった。
所轄に入って、一番先に声を掛けてきた男は、先輩である警部、大師総一郎(だいし・そういちろう)だ。良くも悪くも、刑事らしく、仕事に真面目で人情に厚い、頑固親父。夏川はそんな印象を受けた。
次に話かけられたのは捜査一課課長のエリート刑事、言問誠仁(こととい・せいじ)。官僚らしい印象を受けるが、1年前に港北署に入って異常な昇進を続ける事で有名な何を考えているか解らない男。元検事という経歴だけが言問のわかる過去。話し掛けられてすぐ、軽く所轄をバカにされたが、さらりと夏川は受け流した。
「大師さん、捜一の言問ってヤロームカつきますねー」
「あぁ…ほっとけ。それより事件だぞ、今から現場に行くから準備しろよ」
俺達は俺達の仕事をするだけだ、と言う大師に夏川は、「もうですかー」と気の抜けた返事をしつつ好感を抱いた。
夏川はヘラヘラと笑いながら徐々に港北署に馴染んでいく。
―――へたれ所轄刑事、うん、いいポジションにきたね
夏川がヘラヘラと笑い続ける限り、誰も彼の真意には気付かない。ヨレヨレのスーツと貧相な程痩せた身体の夏川が、時折サボって怒られ、笑い続ける限り。
―――うん、誰にも疑われてないね
彼の真意は、暗い闇の底だ。
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