人間には、大人になる過程に、意識の抑圧がされる。それは無意識の願望であったり、潜在的な原始の感情であったりと様々だ。 心に溢れる感情を、理性やモラルを持って人間は感情をコントロールする。その際に、人間の意識下にある抑圧された混沌や闇、悪意―――それが具現化したものが、シャドウと呼ばれ、この世界を徘徊しているというのだ。 「…普段は、シャドウは大人しい観客なの。彼らは世界の傍観者なの」 でも、と妖精は続ける。人間が入ってきた事により、自分がその人間に取って変わり、表の世界を謳歌したいという欲望や、純粋なる嫉妬や羨望から、表の意識に選ばれなかった彼らは興奮状態にあるのだと。 今は霧が出ているため、通常建物内にしかいないシャドウが人間を襲う事はないが、さっき襲われたのは、建物内のシャドウに近寄りすぎてしまった為だと言う。 「シャドウねぇ…じゃあ、俺らのシャドウとかも歩き回ってるわけ?」 夏川はマンションの入口にある壁にもたれて、思い付くままに妖精に質問をした。夏川に向けて、珍しく真面目な顔をした妖精は首を横に振る。 「それはわかんないなの。でも、有り得る話なの」 妖精は話を続ける。 普段は大人しいシャドウも、この世界で霧が晴れる日は大暴れしだす。その時に人間がこの世界にいれば、間違いなく、シャドウに喰われる、と。 その話を聴いた本牧が、ボソボソと小さな声で神在に軽い疑問を投げかけた。 「食われるって…エサなんすかね」 「殺されて入れ替わられるって事だと思うよ」 大人としては理解力が若干残念な本牧の質問に、真面目にコソコソと答えを返す神在。 あぁ、とその応えに自己完結した本牧は、また黙り込み、胸ポケットからメンソールのタバコを取り出して火を付けた。 「じゃあ、最悪、落ちた子が見つかんなくて、この世界の霧が晴れたら…」 「確実にシャドウに殺されるなの」 マジで捜さないとやべーじゃん、と夏川は慌て出す。このまま帰れなければ自分も同じ目に遭うかもしれない、という事と、自分の現場で死者を出した時の重さを計算しての事だ。 「でも、なんでお前は無事なんだよ黄色とピンク」 既に生物ですら無くなった夏川からの呼び名に、妖精はキャアキャアと一通り喚いてから答えた。 「あたしは、近くならシャドウの居る場所わかるなの。だからちゃーんと隠れてるなの」 えっへん、と自慢にならない事を胸を張り答える妖精。うへ、頼りになんねーと夏川が呟くが、神在は妖精の言葉に使える、と感じた。 「妖精さんは、近くじゃないとシャドウがいるか、わからないの?」 「ある程度の距離までなら大丈夫なの。人間やスゴく大きな思念を持ったシャドウなら、普通よりいっぱい先までわかるなの」 だから自分達を見つけたのか、と納得する神在。そうなんだ、と応えながら、頭の中では、自分達の手に負えないものならこの妖精が教えてくれるに違いない、と軽い打算を働かしていた。 彼女は、他者にとってはどうでもいい情報も、周りを護る為なら有益な情報に変えてみせるのが信条だ。旭を助ける前に自分達がやられては元も子もないと、神在は確かに計算していた。 旭を助けるためには、まだ、この妖精からは聞くべき事がある。そう感じた神在は、自分の制服の胸ポケットにあった筈の煙草を探す。ドレスの腰にぶら下がった幾つかの棺型したポーチのようなものに触れると、その中を探っていつもの感触から煙草とライターを取り出して火を付けた。 「そういえば、あたし、みんなのお名前ちゃんと聴いてないなの」 おねーさまの下の名前も知りたいなの!と妖精はスカートとしっぽをふりふりと揺らして目を輝かせた。 「あー、そうだな。一応俺も全員聞いときたいかな」 それに、夏川が未だに一言も会話をしていない本牧をちらりと横目で見て賛同した。 それをフォローするように、神在が初めに妖精へ告げる。 「私はね、神在結衣子よ。カミって呼ばれる事が多いかな」 「ユイコおねぃさまなのね!可愛いお名前で素敵なの!」 明らかにもう目的は達したと言わんばかりのキラキラした瞳で、妖精は頬を紅潮させた。妖精の絶好調を無視して夏川が続く。 「夏川大輔。刑事っつって解るか、お前」 「お巡りさんのことなのね!」 「違うっつーの!」 しばらく刑事とお巡りさんについて違いを説明していた夏川だったが、妖精にはどう説明しても理解出来ないらしい。夏川は諦めて、お巡りでもいいや、と呟いた。 「ダイスケはみょーなこだわりあるなの」 もう溜め息しか出なくなった所で、夏川は助けを乞うように本牧を見やった。ニヤついて見ていた本牧も、流石に嫌とはいえずに自分の名を名乗る。 「ホンモク…っす」 「ファーストネームもちゃんと教えてなの」 「やだ」 きっぱりと言い放って口の端を歪めた本牧に、ムカつく子なのね!と激怒する。夏川がしみじみといい笑顔で 「本牧さん、すげー良い人ですねー」 と言うと、ども、と本牧が応える。2人は妖精をいじりたいという共通の目的の元、初めて言葉を交わした。 男同士で謎の友情が芽生え始めたと同時に、妖精は急に地面に座り込んで背を向ける。 「いいなの。教えてくれないなら帰り道も教えないなの」 「おまっ、俺達は教えただろーが」 帰り道が最優先で知りたい夏川が妖精に抵抗すると、神在は苦笑しながら助け舟を出した。 「あー、確か周一くんだよね、本牧くん?」 「…そうっす」 あの大人数居る現場の中で、使わない筈の自分の名前を、よく覚えてんな、と本牧は心の中で感心した。自分は神在の下の名前を覚えている事など棚に上げて、だ。 「やっぱりユイコおねぃさまは優しい人なの」 手のひらを返したように3人に向き直るとしま模様のしっぽを震わせる妖精。 「で、お前はなんて名前なんだよタヌキ」 ようやく話がまとまりかけたと見て、前から思っていた疑問を夏川は投げかけた。 「妖精」 「…は?」 余りにも完結にサラリと答える妖精に全員が頭の上に疑問符を浮かべた。 「名前とか、ないなの。あたしは、生まれた時からアイドルで妖精なの」 「お名前、ないの?」 神在は優しく語りかけるように確認しながら、妖精の頭を撫でる。神在の手にうっとりした表情を浮かべた妖精は、はいなのー、と緩やかに応えた。 ―――思ったよりいい毛並み!なにこれ、マジ毛並みだけ拉致って帰りたい…!むしればいけるか…?! 優しく見せても、やはり考える事が不穏な神在は健在なのだった。 「じゃあ、呼びにくいからお名前つけるね」 と、神在は悪い癖を発動する。誰にもあだ名を付けたがるのは、幸浦に似てしまったのかもしれない。 顎に手を当てて少し考えると、パチンと指を鳴らして愛称を告げる。 「首無しクマ」 ―――ぶっ。 盛大に男2人が吹き出す。予測を大幅に越えて優しさが欠片もないセンスに、男2人は期待の眼差しを向ける。 「ジッパー」 「毒色彩」 「フライドタヌキ」 「…呼びにくいな…、ヤッパリ人間ぽい名前が…」 ぶつぶつと納得がいかない顔をした神在は、一通りエグいあだ名を呟いて妖精を涙目にした後、決めた!と声を大きくした。 「タヌキっぽくて洋服がアリスっぽいから…、綿貫アリスでどう」 「ワタヌキ?」と小首を傾げつつ、アリスという名前が非常にお気に召した妖精は、「アリス!アリスなの!」と飛んだり跳ね回ったりし始めた。 「タヌ吉でよくないっすか」 神在が張り切って決めた名前に、というより、喜ぶ妖精に水を差したいために、センスが欠片もない名前を意見する本牧。すかさず妖精が本牧をペシペシと叩いた。 「アリスの方がアイドルっぽくて可愛いなの!それにあたしは女の子なの!」 完璧に性別を無視した命名が気に入った本牧は、どうしたタヌ吉、とあえて妖精の頭をポンポンと叩く。 一方夏川は、綿貫、というセンスに地味にウケていたようで、腹を抱えている。 「神在さんも、やっぱりタヌキにしか見えないんですね」 「ピンクの羽根が無ければですねー」 苦笑しながら神在は、パステルカラーのピンク色した羽根を見やった。 自己紹介が一段落した3人は、笑いながら、綿貫アリスの話を深く聴く。建物内にはシャドウが存在するという事実から、身構えて旭を捜す事を決意する。 その際、本牧は神在をじっと見つめていたが、何事か思い付いたように神在の隣へ寄ってきた。 「神在さんの武器って、俺らにも出せないっすか」 へ、と間の抜けた声をだした神在は、思いもよらない本牧の発言に、急いで棺型をしたポーチのひとつからカードを取り出した。 「わかんないけど…やってみる」 見れば、夏川も綿貫もじっと神在の動向を見守っているようだ。 そして眸を伏せ、心のままに、その言葉を紡ぎ出した。 「…ペルソナ…」 月の描かれたカードから、黄金色の光が漏れ、神在の体を包んでゆく。 慌てていた先程とは違い、2人と1匹は固唾を飲んで神在のペルソナが現れるのを見守った。 神在の足元から黄金色の光が溢れ、まるで神在の身体から抜け出すが如くに背後からクレオパトラが現れる。 『汝、妾に何用か』 頭の中に響く慣れない声。銀色の仮面をしたクレオパトラが発している事が、何故か全員に伝わった。 「私だけじゃなく、みんなにも武器を与えて欲しいの…出来る?」 神在はクレオパトラに向き直り、願いを口にする。鷹揚にクレオパトラは錫丈の先を口元にあてがうようにして笑うと、容易い事、と応えた。 『お主を護るためならば、武器も身を守る防具も全て妾が用意してやろう。しかし』 「…しかし?」 ちと制約があっての、とクレオパトラは足を組み替えた。 まず、一つ目に、神在に向かって刃を振るった場合、武器は消滅する。 二つ目に、神在が経験を積めば積むほど武器や防具は強さを増すこと。 三つ目に、神在が意識を失えば全員の武器と防具は消滅し、出し直さなくてはならない事。 最後に、全員の装備を出している間、クレオパトラは攻撃魔法が使えない事を提示した。 『お主の精神力は大きいが、武器を出したままでは主の消耗もある程度早くなる。流石に重ねて攻撃魔法を撃つことは不可能じゃ』 クレオパトラは、もう一枚のハートが描かれたカードを錫丈で指し、話を続ける。 『もう一人の汝、ペルセフォネは魔力に長けたペルソナ。主は同時にペルソナを動かす事が出来る故、魔法ならば奴に任せておけばよかろう』 神在は手元に残っているハートが描かれたカードに視線を落とす。カードから銀色の光が漏れだし、クレオパトラと同じようにして金色の仮面を被った真紅のドレス――ペルセフォネが現れた。 そして、優しげでゆっくりとした高い声で全員の頭の中に囁く。 『私は貴女の心の音を魔法に変える者…貴女が謳を口ずさむ限り、精神力を余り消費せずに、いつまでも魔法を出し続けていられるわ』 ペルセフォネも制約を歌うように口ずさむ。 一つ目に、クレオパトラと同様、神在が意識を失えばペルセフォネは消えてしまう事。 二つ目に、謳で連続魔法を出し続けている間は、謳に集中しなければならない事。 三つ目に、謳は自分の思い付くものならば何でも良いが、歌が途切れれば、魔法は止まるので、もう一度唱い直さなければならない事。 四つ目に、回復魔法は攻撃魔法とは同時に行えないので、別の謳を唱いなおす事。 最後に、謳無しで発動する魔法は大変な精神的消耗をする事を挙げた。 「成る程…、じゃあ、神在さんが謳っている間は、武器出して貰ってる俺らで護らないといけないんですね」 夏川の問い掛けに、クレオパトラは頷き、そうなるの、と答えた。 「大丈夫なの、ユイコおねーさまはダイスケとシューイチが護るなの!」 ピンク色の羽根をパタパタと羽ばたかせて綿貫が勢いよく答える。夏川が、「タヌキ、マジで役立たずだな」と綿貫を小突き、ペルソナたちは笑いあった。 『では、結衣子。お主が契約した者だけ、いつでもこの世界で妾が武器と防具を用意してしんぜよう』 そう言うとペルソナたちは光を収束させて神在の手元にカードとして残るのだった。 「契約…」 神在がそう呟くと、月が描かれたカードが煌めくのを感じた。 「このマンションに入る前に、やってみよっか」 そう言って神在は、本牧の前に向かい合うのだった。 |