鳳凰戦華伝
陸
「俺と戦え。明日の夕刻。場所は明日伝える」
それだけ言って、颯雲は立ち去った。
椿は眉根を潜めて不機嫌を露にしたが、孤児院の様子も気になった為、一先ず戻ることにした。
孤児院は思ったほど混乱してはいなかった。
美和や月下が宥めたのだろう。
「お帰り。椿。問題なかった?」
「あぁ。……美和、取り立てってのはいつも来るのか?」
椿が戻ったのを聞き付けた月下と美和が二階から降りてきた。
子供たちは寝かしつけたようだ。
椿はいつものような無表情に近い表情に戻っていて、静かさを感じ取れた。
「えぇ。ここ最近はほぼ毎日で」
「どうやって追っ払ってるんです?」
暗い室内に灯りを灯しながら月下が聞いた。
「いつもは私が弓で、ちょっと威嚇して追っ払うんですけど。何故だか懲りないんですよね。……相当の馬鹿なのかな」
最後は小さく呟かれたものだったが、小さく棘のあるものだった。
苦笑いで肩を竦めた月下を他所に、椿は床に寝転がり再び眠ろうとしている。
いつの間にか拘束を解かれた黒髪が、惜しげもなく床に広がった。
緩やかに上下する体を見ると、すでに眠ったのだろう。
その速さに感嘆した美和と月下は、お互いに苦笑いを溢し、灯りを消して二階に上がった。
東から太陽が昇り始めた頃には、美和はすでに出掛けたと言う。
月下や椿に続いて起きてきた藤が、眠たげに答えた。
「う〜ん、泊めてもらったお礼に、何かしたいんだけど……ね、藤君。なんかお姉さん達にやって欲しいこととかないかな?」
月下が目線を下げて藤に問うと、彼はちょっと困ったように笑った。
「え、えっと、そうですね。……じ、じゃあ、年少の子供達に勉強を教えてもらってもいいですか?」
その申し出を、勿論快く引き受けた月下だったが、いくらか不思議そうな顔をしていた。
それに気づいたのか、藤は話を続けた。
「いつもは、美和さんが教えてくれるんですけど。今日はちょっと遅くなるかもって言ってたんで。子供達には、なるべく勉強させてあげたいし」
「なるほど。藤君、若いのに良い心構えね。……こういう子が、お役人様とかになってくれたらいいのにね」
少し大袈裟に涙を拭うふりをすれば、藤は柔らかく笑った。
しかし、後に続いた言葉を聞くと、悲しそうな表情になってしまった。
「僕も、出来るならお役人様になって、みんなを助けてあげたいです。実は、誰も飢えない国を作るのが、僕の夢なんです」
藤は恥ずかしそうに笑った。
けれど、その瞳には確実な悲しみも溢れていた。
「けど、きっと無理です。お役人って言うのは貴族様のお仕事で、僕達、普通国民にはそんなお仕事出来っこありませんから。……僕の夢は、見るだけ無駄な夢なんです」
悲しそうな笑顔を浮かべながら、藤は細々と語った。
藤に声を掛けようとした月下を遮り、先に言ったのは椿だった。
「大丈夫だ。お前なら、きっとその夢を叶えられる」
それは月並みな言葉だったが、ひどく確実性があるように聞こえた。
だが、それだけでは藤に純粋な笑顔は戻らない。
「無理ですよ。この国が変わらなきゃ」
「変えて見せる。……私が、お前の夢をいつかきっと叶えてやる。……無駄な夢など、この世に存在しないのだから」
そう言った椿は、常時にしては珍しく、優しい微笑を浮かべていた。
剣呑な印象の瞳は、柔らかく細められ、まるで聖母の如き眼差しで藤を見つめた。
元が元なだけに、その微笑は非常に衝撃的だった。
そんな破壊力抜群の微笑を向けられた藤は、一瞬、見入られたような表情になり、それから慌てて、純粋な笑顔を作った。
「分かりました。僕も、待ってます」
それは、希望を取り戻した少年の笑顔。
傷付きながらも立ち上がる、強かさを携えたものだった。
「全く、安請け合いするからそうなる」
椿は床に転がる月下を呆れた目で見詰めた。
「だって、まさかここまで付き合わされるとは思わなかったもの」
「お姉ちゃーん!これはどうやるの?」
ちょっと離れたところで小さな女の子が、大声をあげている。
起き上がった月下は、再び子供達に勉強を教えに行った。
ここの子供達は、他と比べても好奇心旺盛で、非常に勉強好きだった。
軽く一時間は付き合わされているのだ。
それに、子供達の学力は高い。
勿論、月下もそれなりの頭の良さを携えているので、教えることに問題はないのだが、甘く見ていた、と月下は後悔していた。
「椿、手伝ってよ」
「断る」
椿もこれの一点張りだ。
そもそもあまり人付き合いが好きではない上、彼女は勉強も好きではない。
特に、子供達が今やっているような数問題にはろくな思い出がない。
「椿、貴方、兵法とかなら出来るでしょう?その辺り教えてあげてよ」
「覚えればいいだけだろうが」
「相変わらず口悪いわね。覚えるだけじゃなくて、その意味も大切でしょう?」
勉強に関しては月下の方が一枚上手だ。
それを知っている椿は不機嫌ながらも、ため息を吐いて子供達に話して聞かせた。
教本に書かれていることを、分かりやすく噛み砕いて説明してやっているようだ。
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