神子色流れ
桃の国 終幕
桃凜は、ふと目を覚ました。
窓は開けっ放しで、夜の冷たい風が吹き込む。
照明具は消えている。誰かが消してくれたらしい。
気温は高めだが、風は冷たいので割かし快適な夜だった。
寝台の隣から月の光が射し込み、星の光は身を潜めている。
あまりに静かな夜。
不気味にも思えたが、桃凜はそうは思わなかったようだ。
暗い部屋の中で、体を起こして寝台を降りる。
足取りはしっかりしていて、寝惚けている風はない。
「寒っ…!」
部屋の端にある窓辺まで歩くと、一言呟いて、その大窓を閉める。
残りいくつか窓はあるが、大窓を閉めた事で部屋の温度は、ある程度ましになった。
「もっかい、寝よ。」
相変わらず緊張感がないが、頭を一掻きしてから寝台に向かう。
あまりに周りが暗く、あまりに相手が強くあった事、二つが重なり、桃凜は後に起きるであろう事を予測出来なかった。
暗闇の中に、銀が一瞬見える。
それは、明らかに刃であった。
瞬間、凄絶な殺気が部屋に充満する。
一瞬で風が止み、一瞬で世界が暗黒に包まれたような錯覚に陥る。
桃凜は咄嗟に後ろを振り向いた。
しかし、時既に遅し。
刃は彼女の首に達しようとしていた。
固く目を瞑り、来るであろう凄烈な痛みに耐えようとした。
しかし、なかなか痛みは訪れない。
「そこまでです。」
一つ、凛とした低い声が聞こえた。
聞き慣れた声は、優しく思える。
目を開くと、そこにはよく見知った顔。
茜雅が、刃を持つ人物の腕を掴んで立っていた。
月の光が、茜雅とその人物の顔を照らし出した。
「やはり、貴女だったんですね。筆頭女官、彩綾 紫花殿。」
その人物は、またよく見知った顔。
紫花だった。
彼女は黒い着物に、黒い口布を着けていた。着物は、千和千鳥の女性特有のものではなく、体の線に沿ったものだった。
「紫花……?何を…してるの…?」
桃凜は驚きを隠せず、一歩足を引いた。
茜雅は、紫花の手を放すと、桃凜の前まで移動する。
「俺も、最初は信じられなかった。だが、それを調べたのは双源だ。それだけで信じざるを得なかったし、何より、貴女の行動全てに説明が着く。」
正面から紫花と向き合った茜雅は、淡々と告げた。
紫花は瞳を伏せ、静かに聞いている。
やはり、手には刃があり、手放す様子はない。
「何故、双源殿が?」
瞳を開いた紫花は、あくまで冷静に問いかける。
茜雅は艶然と微笑み、桃凜を一瞬見やった。
「あぁ、存知なかったですか。世間に知られてはいませんが、あいつは柳弦国の情報将校です。」
ここで初めて紫花がの表情が変わる。
驚きに満ちた瞳は、戸惑いも入っていた。
「彼が、柳弦国の情報将校ですって…?」
その反応に満足したように茜雅は笑う。
すると踵を返して、開け放たれた窓に向かった。
腕を伸ばせば、鳩が止まる。
先程来た、柳弦国からの伝書鳩だった。
「本人に言う気は死んでも有りませんが、奴が持ってくる情報は未だ間違ったことが有りません。」
振り返り、紫花の方を優しく見据える。
と同時に、桃凜にも目を向け、彼女の状態を気にしている。
紫花は、諦めたように眉根を寄せ、自嘲するように笑った。
「ふふっ…。駄目ですね。やはり、腕が鈍りましたか。」
刃を見詰め、それを鞘にしまう。
カチリと、完全に刃が仕舞われてから、再び紫花は笑う。
泣きそうな笑顔だった。
いつも叱ってくれていた紫花とは別人のように感じる。
桃凜は、未だ信じられない事実を飲み込むのに必死のようだった。
淡い微笑みは白い桜のようで、黒い衣装との印象の違いが、より儚げに映した。
桃凜の足が縺れそうになる。
混乱している事が、簡単に知れた。
それを見つけた茜雅は近寄り、彼女を支える。
冷えた体が、残酷に思えた。
「双源が挙げてきた大きな条件は、三つ。一つ、桃凜に近しい存在であること。二つ、過去の経歴にこれと言った特徴が無いこと。」
指で数字を表したりしながら、茜雅は告げた。
一つ一つ条件を挙げる度に紫花の顔が少し歪む。
「そして、三つ目、彩綾家の人間であること。」
紫花の表情が爆弾を投下されたように、驚愕の表情に変わる。
茜雅は、それを見るとさらに続けた。
「彩綾家はもともと、鏡華帝国に与する家であったはずです。何故、この朱鸞に移ったのか。その経歴は知りませんが、鏡華帝国から朱鸞に移った家は、貴女の家だけだったそうですよ。」
それまで黙っていた桃凜が、口を開いて早口で捲し立てた。
「ま、待って!それって、元凶は鏡華帝国ってことなの?!」
慌てたような口調はいつもの彼女とは思えない。現状に戸惑う一人の少女だった。
「まぁ、簡単に言えばそうだな。」
わざと普通の口調で、わざとあっけらかんと言ったので、桃凜の方が呆気に取られていた。
「まぁ、そういう訳です。何故、貴女が桃凜を暗殺しようとしたのか。その理由は分かりませんが。」
茜雅が最後に付け足すように告げると、一瞬、紫花の表情が歪む。
暗殺と言う言葉を聞いて、桃凜の顔も驚愕に満ちた。
「全て、その通りですよ。流石ですね。柳弦国の情報将校殿は。その情報から、私を見つけ出した貴殿にも感服です。」
それから紫花は、桃凜を見やる。
まるで娘を見るような優しい眼差しは、逆に突き刺さるように感じた。
「……申し訳ございません。女王陛下。私はもう、貴女様にお仕えすることは出来ません。」
「…紫花?」
「最後に、お話致します。私の今に至るまでの全てを。」
優しげな瞳には涙が溜まっているように見えた。
桃凜は黙って、彼女の話を聞こうとする。
「彩綾家が鏡華帝国の家であった時、私は鏡華帝国の暗殺者でした。それも、部隊長で。」
「紫花が…暗殺者の部隊長…?」
桃凜が信じられないと言うようにすると、紫花はゆっくり微笑んだまま頷いた。
「けれど、私は悪人しか殺さないと心に誓っていました。時の帝王もそれを了承して下さっていました。
しばらく、それは続いていて、人を殺して供養をして。その日々が流れました。
ですが、ある日、悪人ではない人を殺すように命令が出されました。」
「それで、貴女はどうしたの?」
「勿論、断りました。ですが、受諾される訳は無く。人殺しの人間と一緒にいるべきではないと、私は家族を朱鸞国に逃がしました。その時代に一番、平和だったので。
私は一人残って、悪人ではない人を殺さなくてはならない日を、待っていました。成す術もなく。」
「それで、殺してしまったの?」
桃凜が聞くと、ゆっくり紫花は首を横に振った。
「いいえ。前日になってある女性から声を掛けられまして。私が逃がしてやる代わりに、私がお前の手を借りたいと言った時は手を貸せ、と。その人が白 蓮鏡様だなんで、その頃の私には全く分かりませんでした。」
「今の…帝王妃様… 。」
桃凜はいつの間に興味深そうに話を聞いていた。
「えぇ。私はその条件を飲みました。若かったものですから。そして、私は家族の元へ逃げました。思えば琉雨は、既に貴女様に会っていたのですよね。それから私は、朱鸞国で生活をしていました。」
「帝王妃様からの依頼はこなかったの?」
「えぇ。全く。その内に私も忘れてしまいました。それからですね、先々代女王陛下になられてから、私はこの城仕えを始めました。いつの間にか筆頭女官です。」
「いつの間にかって…。貴女ねぇ。」
何故だか、普通に笑えるようになっていった二人、茜雅はその二人を黙って見詰めていてくれる。
「それで貴女様と出会った。楽しかったですよ。」
紫花は、華やかに笑った。
それに少ならからず違和感を覚えた桃凜は、ほんの少し目を丸くする。
「なんか、最後の別れの挨拶みたいね。」
まさかと思った。
そんなはずはないと。
だから敢えて口にした。
だが、紫花が否定をする様子はない。
儚い笑みが一層濃くなっただけだった。
それだけで紫花は何も言わず、話を続けた。
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