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紺の空


汽車は海面を滑るように走っている。
汽車の前面に足を垂らし、少女は後ろを振り返った。

男は反応を示さない。自分の前には誰もいないとでも言うように、ただじっと汽車の前方を見つめている。
「…お兄さんは、誰なの?」
「車掌」
答えてくれるだろうかと不安に思った問いは、存外あっさり回答が得られた。

「この汽車の、車掌」
車掌が喋るごとに、くわえっぱなしの煙草が動く。長さは先程から変わらないように見えた。ほんの僅かパラパラと散る灰は細かく、風と蒸気に流されてすぐに消えていく。
もう見えない灰を目で追いながら、少女はふと、自分が何も知らない事に気付いた。
「この汽車、どこへ行くの?」
「…行くべき所さ」
車掌は答えた。視線は相変わらず前を向いたまま。少女は捻っていた上半身を戻し、汽車の行く先を見つめた。

暗い空と暗い海。
その2つが重なる中心を通って行く。通って行く。
夜の海を走る汽車の先頭。二人は冷気を帯びた強い夜風にその身を晒していた。
紺色のしっかりした制服を着た車掌。黒塗りの汽車。少女にはただひとつ、自分の着ているワンピースの白だけが ひどく浮いているように思えた。


「車掌さん」
静けさの戻っていた汽車の上で、少女が立ち上がる。それでも、胡坐をかいた車掌を頭ひとつ分越しただけの高さしかない。
「あれは何?」
暗い海の向こう。
少女は真っ直ぐ、汽車が進む先の遠い海面を指さしていた。触れたもの全てを引きずり込みそうな海。その上に人が沢山立っている。
「駅だ」
当然のように車掌が言う。すぐに汽車が失速した。
「駅…?」
「着けばわかる」


遠くに見えていた人影に近付いていく。汽笛が数回鳴り響く。やがてヘッドライトが駅を照らし、後ろから聞こえていた蒸気の音が小さく静かになっていく。
完全に停車すると、辺りにうさぎの車掌の声が響いた。
『お待たせいたしました。もう5分程で発車となりますので、ご乗車になってお待ちください』

客室車両から漏れる明かりが、人々の顔を照らしている。少女が乗った駅と同じで、話している者もいれば一人汽車を眺める者もいる。
車両のドアが一斉に開いた。
開いたドアから漏れる光が、ホームを更に照らし出す。


「……床、なの?」
人々の足元を見下ろして、少女が呟いた。
海面のすぐ下に平らな何かがあった。人々は海ではなくそこに立っている。
「誰が作ったの?」
「誰も。それはただの岩だから」
車掌は未だに前を見つめていた。ホームも、そこから汽車へ乗り込んでいく乗客にも、関心を示さない。
少女は落ちないように気を付けてホームの方へ身を乗り出した。うさぎの車掌がホームに立ち、乗客が乗り込む様子を見守っている。

うさぎが車掌をしているという事以外は、まるで普通の駅だった。
でも、周りは海ばかり。人々がどこから来たのか、少女にはわからない。


「どうして海に駅があるの?」
少女は元の位置に座り直して聞いた。しかしその後には人々の足音と声が遠めに聞こえるばかり。振り返って見ると、車掌はちゃんとそこにいる。
聞こえなかったのだろうかと見つめていると、黒の瞳は久し振りに少女を見下ろした。
「人が、海と関わるからさ」
静かな瞳だった。
明るさの少ない、暗い瞳。諦めたような、傍観するような。どうしてそんな目をしているのか、それも少女にはわからない。


たし、たし。
微かな足音を聞き取り、車掌の目がホームに向く。
つられて少女もそちらを見ると、うさぎの車掌がすぐそこに来ていた。少女に向かい、客室車両を指す。

「乗りますか?」
聞かれて、少女は車掌を見た。既に車掌の視線は汽車の進行方向へと戻ってしまっていて、こちらを見る様子はない。
少女はゆっくり首を振った。
「…ううん、ここにいる」
「わかりました」
うさぎの車掌はぺこりとお辞儀をして、客室車両に乗り込んだ。ドアがまたひとりでに閉じていく。そうして完全に閉まってから、うさぎの車掌の声が響く。
『お待たせいたしました。発車致します』

また海面を走って行くのだろうと、少女はそう思っていた。
するりと走り出した汽車は蒸気の音を大きくし、汽笛を鳴らす。

車体が浮く感覚がした。





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あきゅろす。
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