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紺の空


深い紺色の空が広がっている。

寂れた倉庫の壁は高く、まるで灰色の巨人がその半身を地に埋めているようだ。
その背中からぼんやり投げかけられるのは町の光。距離はそこまでないはずなのに、遮る物が多過ぎてどこか遠い。
都会より光が少ないのも理由の一つだろうか、こちらから見えるのはひどく曖昧な、ぼうっとした灯りだけだった。

たし。
足元から音がする。少女はゆっくりと俯いた。長い髪がさらりと垂れ、白いスカートがふわりと揺れる。
音は、少女の足が灰色のコンクリートに触れる音だった。深夜の冷たい気温の中、足の温もりはとうにない。
靴も履かず、上着もなく、長い白のワンピースだけに身を包んで、少女はそこに立っていた。
その表情はぼんやりとしていて、何も考えていないかのようで、空虚という言葉がよく似合う。

周りには誰もいない。

大きな倉庫が立ち並ぶ前には、どこまでも暗い海が広がっている。倉庫から海まで、コンクリートの地面は車1つがやっと通れる程度の幅しかない。
端の倉庫の前に佇んだまま、少女は辺りを見回した。電灯は近くに1つと、だいぶ離れて1つ、また1つ。深夜の埠頭を照らすには足りない数だ。


夜の海に浸るように、少女は目を閉じる。
しかし波の音に混じって何か、何か違う音が聞こえた気がして、そっと目を開けた。

「……?」
視界の右端、遠くの空が光った。
星の瞬きとは違う強い光。
目を凝らしてよく見ようとすると、近くで何かが動いた。
反射的に視線が移り、倉庫と倉庫の間から人々が出てくるのが見える。老若男女入り混じった集団だ。行列となって海沿いに歩いてくる。
全員で話すわけでもなく、親しい者同士で固まっているわけでもない。殆どが一人で、だが時に数人で話をしている。少女にはそんな風に見えた。

一歩踏み外せば海に落ちてしまいそうな道の端。それに沿い、人々は列をなしたまま立ち止まる。


ポーー… ポーーー…
汽笛のような音が近付いてきた。
少女には人々の談笑も聞こえていたが、どうしてか言葉を聞き分ける事ができない。楽しそうであったり慎重であったり、声色の雰囲気だけが伝わってくる。
そして遠くから近付いてきた汽笛の音はもう、明確な形を持ってこちらへ向かっていた。


黒い蒸気機関車。
金色の縁取りが施されていて、闇夜にあっても鈍い輝きを放っている。低空を走ってきたそれはやがて海面を滑り、人々の列に平行して停車した。
ただの埠頭の隅が駅のホームへと変わる。

『お待たせいたしました。もう5分程で発車となりますので、ご乗車になってお待ちください』
落ち着いたテノールの声が響く。
汽車のドアが一斉に開き、一番前の客室車両からぴょこりとうさぎが飛び降りた。中型犬ほどの大きさの白い兎。車掌の制服に身を包み、人々が乗り込んでいく様子を見守っている。

少女は壁際から離れ、汽車の方へ歩き出した。


たし、たし。
冷たくさらさらしたコンクリートを踏みしめて、うさぎの車掌とすれ違い…一番前へ。先頭車両の屋根の、蒸気を噴き出す煙突よりも前。
本当に汽車の「一番前」に、人が乗っていた。

うさぎの車掌と同じ服を着た男。
帽子の下からのぞく短い黒髪、気だるそうに丸まった背中。横から上る細い煙は煙草のものだろう。少女はホームの一番端へ行き、前から彼を見つめた。


「……」
前を睨んでいた黒い瞳が下がる。
あまり機嫌が良さそうには見えない。少女に焦点を合わせたのは一瞬で、彼はまたすぐに前方の空を見上げた。胡坐をかいた脚にだらりと腕を垂らしていて、汽車の上だという事を考えればひどくバランスが悪い。
特にそこは客室車両とは違う丸みのある「床」だ。汽車が走り出した途端に振り落されてもおかしくない。

けれど彼は、最初からそこにいた。
汽車がホームで停車するよりずっと前から。まだ汽車が空を走っている時から。


立ち尽くしていた少女はふと、人の行列がなくなっている事に気付く。客室車両から漏れる明かりに照らされて、うさぎの車掌が少女を見つめていた。
「間もなく発車致します」
うさぎの車掌はもそもそと口を動かした。先程聞こえたのと同じ、柔らかいテノールの声が響く。

少女の周りには静寂が戻っていた。
乗客の談笑も車両の壁に阻まれて聞こえない。男の後ろにある煙突からは霧がふわりと立ち昇っており、そこが小さく掠れるような音を出している他には、変わらぬ波の音が聞こえるだけだった。

うさぎの車掌は、ホームに残った最後の一人を見つめている。その視線を受ける少女は客なのか、客ではないのか。
やがてうさぎの車掌は空を見上げ、少女にぺこりとお辞儀をして汽車に乗り込んだ。
客室車両のドアがひとりでに閉じていく。

完全な箱の連なりとなった汽車を見て、少女は一番前に座る男に視線を戻した。彼も少女を見ていたらしく、視線がぶつかった。波の音が入る隙もなく、男は少女に声をかける。


「乗らないの?」
思っていたより少し高く、優しい声色だった。
彼の表情も姿勢も何も変わらないけれど、その声を聞いた少女は少しだけ安心した。一歩近付いて、ぼんやりとした顔で彼を見つめる。
「乗った方がいいの?」
「……あぁ」
男は立ち上がると、車両の丸みに沿って滑り降りた。車両の側面、車輪のすぐ上にある細い足場に着地する。煙突から聞こえる蒸気の音が大きくなった。

『お待たせいたしました。発車致します』
車両全体に響くうさぎの車掌の声が聞こえる。男は片手で汽車に掴まり、少女にもう片方の手を差し出した。


「行こう」

車輪がゆっくりと動き出す。定期的だった波の音が乱れていく。

少女は差し出された手を取った。




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あきゅろす。
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