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小説

ぱたぱたと、慎琵は家を駆け回っていた。
小学から帰ってきたぼくは、きょとんとその姿を目で追った。
ぼくが巧に来てから二年が経っていた。
小学では、入ったのは年齢的に遅かったものの、既に小学の長 閭胥から序学への推薦を約束されていた。その早さに、斎老と慎琵はぼくをとてもほめてくれた。
自慢に思うよと、斎老が言ってくれたことが、ぼくは忘れられない。
「なにしてるの?慎琵」
慎琵は足を止め、ぼくを笑顔で迎えた。手には布巾を持っていた。掃除していたようだ。
「あら。幸祐。おかえり。珍しいお客様が、いらっしゃるの」
慎琵は、ふふ、と笑った。
「お客様?誰?」
斎老を訪ねてくる人は少なくないが、慎琵がこのように準備に勤しむのを、ぼくは初めて見た。
「それは斎老からお話があるわ。聞きに行ってらっしゃい」
慎琵はもったいつけた後、再び忙しそうに動き回り始めた。

ぼくが斎老の部屋へ向かうと、斎老は珍しく牀から背を離していた。
腰の周りに柔らかな靠枕が置いてあり、座っていても疲れないように工夫してあった。
ぼくは、それでも斎老が無理をしてはいないかと、走って斎老の側へ行き、その顔色を確かめた。
「おかえり、幸祐」
斎老は笑った。眼はつむったままだったが、足音で、ぼくが戻ったのに気付いたようだった。
「ただいま帰りました。斎老、お客様がお出でだと聞きました。どのような方なのですか?」
「七日ほど滞在されるそうじゃ」
斎老はぼくの問いとは異なった返答をした。ぼくは眉をひそめた。
しかし、こういうときほど、斎老がなにか伝えようとしていることを、この二年間で学んでいた。斎老の言葉を待つ。
「この家に来るのも、本当に久しぶりでのう。慎琵は、本当に張り切っておる。
わしと、慎琵には、恩人に当たる方で、ずっと書簡のやり取りはしておったが、いらっしゃることはなかった」
斎老は、白濁した目で、ぼくがいる方角を見た。
見えていないその目から出される真剣な視線を、ぼくは感じた。
「今回の訪問の目的は、幸祐じゃよ」
ぼくは目を見開く。
「おぬしに会いに、いらっしゃるのじゃ」
ぼくとは反対に、斎老は目を閉じる。
「わしと慎琵の恩人は、塙王じゃ。主上が、おぬしに会いにいらっしゃる。そそうのないようにしなさい」
「・・・どういうことでしょうか?」
一瞬、頭が真っ白になるのをぼくは感じた。声がかすれるのを感じながら、斎老に尋ねた。
斎老は、もうなにも答えず、ただ笑みを浮かべていた。

塙王の功績は、小学でたびたび学んだ。
また、慶との違いを発見しては、その偉大さに感動した。
王が玉座にいるということの幸せを、ぼくは毎日のように感じた。
王とは、神で、雲の上の存在であった。その王が、自分に会いに来るなど、そんなことがあるはずないと、そう思った。
斎老がからかっているのではないかと、思ったが、そんな馬鹿げたことをする人ではないことも知っていた。
慎琵は、忙しそうに働いており、尋ねられる状態ではなかった。
ぼくは、斎老の書房でひとり、過ごしていた。
混乱していた。
だが、王が会いに来るということだけは受け入れるしかなかった。なぜ会いに来るのか、理由だけはいくら考えても分からなかったが。


玄関が、騒がしくなったのを感じ、ぼくはびくり、と体を震わせた。
書房から、おそるおそる顔を覗かせた。聞こえたのは、慎琵の嬉しそうな声と、女の鈴の音のような笑い声だった。
廊下を、衣擦れの音と共に、歩いてくる女の姿が分かった。
ぼくは、あわてて顔を引っ込めた。慎琵の、はしゃいだ声が聞こえた。
「本当にお久しぶりです!何年振りでしょうか」
「そうね。九年ぶりではないかしら。二年前は、結局無理だけ言って会うこともできなかったから」
「そんな、無理だなんて」
「本当に感謝しているわ」
慎琵は、くすぐったそうに笑った。
「斎のお加減はいかがかしら?悪くしてはいない?挨拶をしたいのだけれど」
「大丈夫ですよ。最近は暖かいので」
「良かったわ。ああ、この薬香の香り。懐かしいこと」
二人は、斎老の臥室へと入ったようだった。
ぼくは、その場に座り込みそうになる体を、叱咤した。
きっと勘違いだ。
ぼくは、うすく笑う。
聞こえた声は、夢で何度も聞いてきた声に似ている気がした。だが、そんなことあり得ない。
今、ここにいらっしゃったのは、塙王なのだ。
安定した治世に、美しい女王。巧国民の誇りが、まさか、そんなことがあるはずがない。


「幸祐を、よびましょうか?」
慎琵の声が、再び聞こえた。
「ええ。是非。早く会いたいわ。きっと大きくなったでしょうね」
「そうですね。大きくなりましたよ。驚かれないでくださいませね」
「できれば、驚きたいわ」
慎琵は、それを聞いて、笑った。
「私が、驚いちゃいます。貴女様が、そのようなことをおっしゃられるなんて」
「そうかしら」
「そうですよ、桔玲様」

ぼくは書房を飛び出した。
驚いた顔の慎琵と桔玲がいた。桔玲は、ぼくを認めると、以前と変わらぬ笑顔を、ぼくへ向けた。
「―幸祐?」
名を呼ばれた。ぼくは駆け出して、桔玲に抱きついた。
思わず、涙が流れた。


「二年前は、ごめんなさい。ここへ連れて行くまでをきちんと果たしたかったのだけど、どうしてもできなかったの。心細かったでしょう?」
ぼくは桔玲と卓子をはさんで向かい合って座っていた。
泣いてしまったことが恥ずかしくて顔をまともに見れなかった。
「巧の暮らしは、どうかしら?」
優しく、桔玲に尋ねられ、ぼくは精一杯の勇気で、顔を桔玲の方へ向けた。
「とても、楽しいです」
その様子を見て、桔玲は満面の笑みを浮かべた。
「良かったわ。そういえば、序学への推挙をもらったと、聞いたわ。頑張っているのね。学ぶことは、楽しい?」
「楽しいです」
「どんなところが?」
桔玲は、微笑んだまま真剣な目を向けた。
巧での生活より、そちらのほうが気になるのだろうか。
ぼくはその視線を受け、すこし首をひねり、考えた。
「えと。周りにぼくの知らないことが、多すぎて。それを知ることが、楽しいです。
あと、書物を読むのが、本当に楽しいです。
書物によって、同じことがぜんぜん違う書かれ方をしていたりして。
たくさんの人の、考えが分かることも楽しいし、歴史を知れるのも楽しいです」
桔玲はたどたどしく言うぼくの言葉一つ一つに、うなずきながら聞いていた。
「どんな本を読んだの?」
「遵帝に関する本を、何冊か読みました。小説もすこし読みましたし、作物の本も読みました。読むのが遅いので・・・」
ぼくは少し恥ずかしかった。好きだと言った割に読んだ量はそんなに多くないと思った。
「あ、菊花録も読みました」
桔玲の顔を見て、思い出したように言ったぼくを桔玲は笑った。
菊花録は、桔玲の即位二百年の際に記念にと書かれた、即位後起こった出来事を書き連ねた歴史書のことである。
それの面白いところは、内乱から、政治改革だけではなく、桔玲がそのとき興味を持っていたことなど、多種多様な地位の人物によって書かれていることである。
即位五十年ごろ起こったお化け騒動さえ、面白おかしく当時の桔玲付の女史によって書かれていた。
巧国民に愛され続けている書物である。

「菊花録も読んだの?」
「はい。おもしろかったです」
「そう?つらつらと、長いだけの記録だわ。私は、つまらないと思ったわ」
桔玲は、肩をすくめてみせた。
「・・・本当に、桔玲様は塙王なのですか?」
ぼくは、思わず尋ねた。桔玲の肩をすくめるその様子が、話し方が、とても気安げに感じた。
桔玲は、何も言わず、ぼくを見つめた。その眼は、とても真剣で、何も言わないにも関わらず、王なのだと、彼女が肯定したように感じた。
ぼくは、くらくらした。『王』が、ここにいる。ぼくの、目の前に。
ぼくはあわてていすから立ち上がり、叩頭しようと床にひざをつけた。
「やめてちょうだい。この家で、叩頭はしないで」
桔玲は座ったまま、優しい視線をぼくへ投げる。
「主上とも、決して呼ばないで。桔玲と、そう呼んで。この家では」
そう言って微笑んだ。
ぼくは戸惑いながら、立ち上がる。
それでいいの、と桔玲が言った。


桔玲は、書に囲まれた斎老の臥室を見渡した。
変わっていない。そう感じた。
九年の間で変わったのは、斎老が牀から起き上がれなくなった点のみである。やせた顔を、桔玲は見た。
「幸祐に、字を教えてくれてありがとう。
書物を二年で、あれだけ読めるようになるなんて、驚いたわ」
「わしも驚いたのじゃ。あれほど、優秀な子だと思わなかった。記憶力もいい上に、勤勉じゃ」
「頭のいい子だと、あの船の上で、感じてはいました。だけど、斎に認められるほどだとは思わなかったわ」
「最後に、いい徒弟を持てて、わしは幸せじゃ。桔玲様には、感謝しておるよ」
桔玲は、斎老を見る。斎老は、相変わらす、目をつむったままだった。
「・・・貴方の人生は、長かった?短かった?」
「そうじゃの。どちらか分からんが、面白い人生じゃったよ。
巧で暮らせて、多くの人に出会えた。他では、できない経験をたくさんしてきた」
「良かったわ・・・。
正直言うと、まだ仙になって欲しい。斎がいる。それだけで、頑張れた。
いなくなって欲しくないわ」
「桔玲様。なにか支えを見つけなされ。思い出などではない、確固とした支えを。
王宮で、支えてくれる何かを」
桔玲は軽く笑う。
「私を、王ではない私だと認識してくれるのは、この家と、そして思い出だけなの。
どうして、それを手放せる?」
斎老は眉をひそめたが、何も言わなかったので、桔玲も、それ以上何も言わなかった。
薬香の煙だけが、二人の間で揺れていた。


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