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今目の前にある幸せと全人類の幸せ、天秤にかければ間違いなく後者に大きく傾くのだろうが、おあいにくとそれは客観的に見た理論であり、俺の中の天秤は罪悪感に駆られながらも薄っすら前者に傾いた。
人間なんてそんなもんだ。例えば砂漠で、脱水症状を引き起こす直前まで水分を取らず過ごしていたとする。ある日突然目の前に水の入ったビンが差し出されて、これを飲めばあなたは助かりますが私の家族は助かりませんと言われれば、自分は水を飲むかどうか。あまりに善人で人の幸せを第一に考える人間なら当然後者だろうが、今にも死にそうな自分に水を差し出しておいてそれはないと、たいていの人間は水を飲んでしまうだろう。まあそれは俺が考えているものであり、他の誰かは全く意見が違うかもしれない。

この話で何が言いたかったのかと言うと、俺は知りもしない大勢の人間の幸せよりも、自分の幸せを最優先にする嫌な奴である、ということだ。目の前にある幸せに縋りつくようなみっともない人間だということでもある。最低な奴と罵ってくれてもいい。

それでも俺は。


「キョンは、私のことを好きになっちゃいけないよ」


――はらはらとカーテンが揺れている。
既に西日が差し込んだ、夕方の教室。赤から青に変わろうという遅い時間。誰もがこの教室からは姿を消し、教師だって何人かは帰ってしまっている。今も部室棟に向かえば俺の仲間たちは待っているのだろう。楽しく遊んでいるのかもしれない。宇宙人未来人超能力者、そして神様。
目の前に立っているのはただの女の子だ。窓際に立つ彼女の髪の毛が、開け放した窓から入り込む風でぱたぱたと靡いている。どれだけ、触れたいと思っただろう。許されない距離。許されない立場。
手を伸ばせば当たり前に届く距離にいるのに、どこまで遠い。手を。手を、伸ばせば届くのに。

「だめだよ」

触れたって、消えやしない。魔法をかけられた人間でもない。シャボン玉でもない。俺が彼女に触れたところで、はじけて消えたりなんかはしない。
人がいなくなった教室で、存在するのは俺と彼女だけ。誰も見ていない。誰にも咎められやしないのに、俺は彼女に触れてはいけない。指先が触れたり肩がぶつかってしまったり、そんな些細な接触なら構わないのに。
俺は彼女を抱きしめてはいけない。かみさまが見ているから。

「今も、だめなのか?」

「……だめだよ」

「暗くなっても?あいつが帰っても?」

「だめ」

先ほどから震え続けている携帯を、半分に叩き折って窓から投げ捨ててしまいたかった。俺とあいつを繋ぐラインなど切れてしまえばいい。どうして俺は選ばれたんだ。どうして俺が。
俺みたいな平凡な人間には、平凡な幸せが保障されていると思っていた。事実、そんなもんだ。人並みに生きているやつは人並みに幸せで、だからこその不幸せだってあるんだろうけれど、人を好きになる権利くらいあると思っていた。
敷かれたレールの上を走り続けるなんて幸せと言えるんだろうか。いくら相手が容姿端麗だとしても、思いのベクトルはあいつに向かない。
一丁前に人を好きになる権利など、俺には最初からなかったのだろうか。

「俺は、おまえが、」

「だめだよ」

すきの一言も言えない。
見えない壁だってそこには存在しないのに、隔てるものなどありえないのに、どうしても触れてはだめだと彼女は言う。
もしも俺が魔法を使えたのならば、真っ先に空に飛んだのに。誰も見えない場所で、見られるなんてありえない場所で、俺はいくらでも叫ぶことができたのに。ああ、でも、きっと。
魔法使いも、神様にはかなわないんだろう。だから、きっと、無駄だ。

「お前に、触れたいよ」

「だめだよ」

「……どうして!」

「神様が、見ているから」

あいつは見ていない。見ていないのに駄目と言う。神様は万能じゃないんだ。あいつだって、きっと見ないよ。

「それでも、だめだよ」

卑怯者。

「知ってる」

彼女は全部知っている。俺が好きだということも。言いたくて仕方ないことも。触れたくて仕方ないことも。
それを全部知っていて、言っちゃだめ、触れちゃだめ、だなんて。残酷すぎる。
だけど俺も、知っている。彼女が、俺を好きだということを。俺と彼女の思いを天秤にかけたら間違いなく前者に大きく傾くだろうが、それでも俺は、知っている。好き、だけど、伝えられない。伝わらない。俺たちの間には、神様という巨大すぎる存在が立ち塞がっているから。

俺は両手を伸ばして、彼女の顔の横に手をついた。彼女に触るなと言われて従ってしまう俺は、きっともう末期なのだろう。そのまま、開いていた窓を閉め、カーテンも引きなおし、薄暗くなった教室で、ただ彼女と見詰め合う。腕の中に閉じ込めているような状態でも、彼女は身じろぎひとつしない。本当はばくばくと脈打っているけれど、触れてはだめだと自分に言い聞かせることでただ平静を装う。彼女に触れたら死んでしまうんだ。だから触っちゃいけないんだ。

「キョン」

「………なんだ」


「    」


やっぱりお前は卑怯者だと、俺は思うよ。
ゆっくり伸びてきた掌が、俺の口を覆う。彼女から触れられるなら別にいい。問題は、俺から触ることがだめなのだと。(神様は見ているよ)――見ているわけがないというのに。
冷たい掌が俺の唇に押し付けられる。恐らくはその手の甲には、彼女の唇が触れたのだろう。感触も、温度も。なにひとつ伝わらない。ただ近まった睫と濡れたみたいな瞳が見えただけ。それだけ。
隔たりが大きすぎて話にならないね。

「足りない」

「だめだよ」

「……もっと」

「もう、だめ」

帰ろう、と彼女は言った。
足りない。掌越しじゃ物足りない。もっと触れて、もっと近づきたいのに。神様なんていなけりゃよかったと、心の中で呟く。でも、神様がいなければ、きっとすべては繋がらなかっただろう。神を憎む意識と敬愛する意識が相反するものだとわかって、俺はその矛盾を、もてあましている。

(おまえに触れたいよ)

――あの掌が取っ払われる日は来るのだろうか。何の隔たりもなしに、触れることができたら。着信の入り続ける携帯が黙る日まで、きっと、俺は待たなければいけないんだろう。神様の気まぐれと力が消えるその日まで。
飢えたような気持ちと、醜いほどの恋情を、押し殺して生きながら。

「………名前」

でも、いつか限界が来て、耐えられなくなって、神様なんか放り出して、世界すらも放り出して、お前を手に入れようとしても、誰も俺を責めることなんかできないはずだ。
こんなに渇望しているのに手に入らないものは、すぐ近くにあるんだから。それを俺は、こんなにも、耐えているのだから。
でも少しは、俺も我慢するよ。お前が愛した世界を崩さないように。神様がいずれ力をなくすであろうその日まで。

「…名前…」

だけど、
もっと触れたいよ。名前。






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にちかさん、
リクエストありがとうございました!






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