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彼の最悪にして最高な一日


その日、古泉一樹の機嫌は最低だった。



(……最悪だ)

ピピピ、という電子音がして、のろのろと脇から体温計を取り出す。今ではすっかり型の古いものとなって衰退されてしまった体温計の液晶は、熱です、と高らかに宣言していた。
元々平熱の高くない古泉にとって、その温度はいっそ稀少だった。どれだけ不摂生をしても、どれだけ冷水を被ろうとも、朝から夜まで体を酷使しようとも、風邪なんて引かなかった自分が。そう思った。
機関の息がかかった保険医はそれを見て眉を顰める。普段古泉は滅多に保健室に来ない。理由としては、それを誰かに発見されてしまうのが面倒だから。それがうっかり涼宮ハルヒの耳へと入れば、彼女の心のうちに少なからず「心配」といった感情が発生するはず。些細なことで感情を揺れ動かされてはたまらないからだ。
よって体温計の温度が高かろうが低かろうが、古泉に下される命令など、最初からひとつしか存在していなかった。

「一時間休むだけでいいわね」

「……はい」

幸い、体を鍛えているおかげで体力の回復は早い。熱まで早く下げるなんて素晴らしい能力は会得していないが、体調の悪さを隠す仮面も方法も持っているし知っている。促されるままにベッドに入って、英語の授業を一時間だけ休んだ。


そして次は、見知らぬ女生徒からの呼び出し。毎度思うのだが、自分のどこがいいのかわからない。自分の顔自身がいいのか悪いのか、性格がいいのか悪いのか、古泉はわからない。
自分に与えられた性格を演じているだけ。言われるままに髪型を変えているだけ。そんなつくりものだらけな自分を好きになるなんてどうにかしている。そう思う。
例によって例の如く告白を丁重に断って、女生徒が背中を向けて去っていったのを確認すると、古泉はその場にしゃがみこんだ。
熱が回ってきたのかもしれない。保健室で一時間休んでから、余計に熱が上がった気がしてならない。ぐるぐると回る視界を掌で覆い、深呼吸をした。


五時間目の終了時、古泉は携帯にメールが入っていることに気付く。こんな中途半端な時間に誰だろう、機関だろうかと思いながら受信メールを開けば、涼宮ハルヒからだった。内容を要約すると右のような一文となる。今日は天気がいいから外でマラソン。誰が一番になるか競争。
――無茶だ、と思った。普段であれば、一もなく二もなく喜んでと口にするところだが、今日は一もなく二もなく逃げ出したかった。とにかく休みたいと、そう思っていた。古泉の体力の限界が来ている。体力が回復及び蓄積されるかと思えばそうではなく、確実に消費していた。
けれどここはあくまで普段の古泉一樹らしく懇切丁寧な返信メールを送り、六時間目の授業を再び休みに費やすことに決める。六間目を休むことは通常であれば許されない。早退か、授業を受けるかのどちらかの二択になる。けれど古泉は、保険医に無理を言った。
そして了承を受けた。


けれど熱は引かなかった。
精神的にはどことなく回復したような気がするが、身体的には何一つ回復していない。何が回復したかと聞かれれば答えることができないが、何が溜まったかと言われれば家への帰還願望とストレスだと即答することができる。

「さ、マラソンよ!いっつも部室にこもってばっかじゃ体力も衰えちゃうわ。制限時間は特に設定しないけど、ビリの人にはペナルティをばっちり用意してるからね。よーい、どんっ!」

悪夢の時間が始まった。泣きたい気持ちになる。各々が進んでいくのをのんびり追いかける、ふりをした。本当は今すぐにだって倒れてしまいたい。
こういうときに限って誰も古泉の不調に気付かない。なにせ、全員が全員ビリを避けているからである。唯一長門有希は気付いているかもしれない。けれど彼女に、古泉を助ける義理はなく、理由も勿論ない。また彼女は涼宮ハルヒの対抗馬として走る義務のようなものがあり、古泉の相手をしている時間などない。
誰かに助けを求めたかった。近くにいるのは朝比奈みくる。けれど彼女に弱みを見せたくはない。それは勿論好きな相手に虚勢を張るなんてかわいらしい理由ではなく、組織同士の抵抗心と言うか。とにかく、朝比奈みくるはアウト。
となると残りは必然的にキョンと苗字名前になるが、そのどちらにもあまり負担はかけたくない。普段負担ばかりかかっている二人に、これ以上荷を負わせてどうするというのだろう。そう、古泉は思っている。古泉の世話を見ることがそこまで負担になるのかと聞かれれば勿論二人はノーと答えるだろうが、古泉はそのことに気付かないし、知る由もない。
けれど、自然と古泉の口は開いていた。言葉を発していた。

「名前の最初の一文字っ………」




目が覚めると真っ暗だった。
起き上がり、まず自分がどんな状況に立たされているのか確認する必要があると思った。古泉の目の前は真っ暗で、そして体は横に倒されていた。目の上に何か生温かくてやわらかいものが置かれているから目の前が真っ暗なのだと気付いた。そしてそれが人の手だということにも。
古泉の睫が上下したのを感知したのだろう、目の前を覆っていたものが音も立てずに離れていく。突然日の光が目に入ってきて、くらくらした。太陽光は武器になるな、なんてたいして意味もないことを考えながらゆっくりと瞼を開く。目の前には苗字名前の姿。自分の状況を再び確認し、すぐに認識する。これは所謂膝枕であると。

「起きたみたいだね」

そのようですね、と返すこともできなかった。古泉の声帯はうまく作動しなかった。ついに風邪菌が喉まで達したのだと気付いたと同時に腹まで痛むことに気付く。全身がボロボロで、これが満身創痍というものなのだなと、改めて学んだ。
苗字名前、そのひとは、自分の膝の上に古泉一樹の頭を乗せ、体の下に自分のジャージを敷いていた。体育館裏の階段の上、人通りの少ない場所。そこまで古泉を運んだのはキョンであり、一方のキョンは、涼宮ハルヒにマラソン中止のお知らせと古泉の不調、その旨を説明に出かけている。
はくはくと開く唇で、古泉が何らかの意思表示をしたがっているのだと、名前は気付いた。だから、掌を差し出した。彼女の思うところを察して、古泉が長い人差し指を彼女の掌にやんわりと立てる。
ありがとうございます。伝わっただろうか。彼女がにこりと笑ったので、恐らくは伝わったのだろうと古泉は思った。
同じく古泉の掌に、彼女の白い指先がつんと置かれた。のたのたと動く指先で、どういたしましてと言われたのだと、伝えられたのだと、古泉は察する。同じく笑顔で対応したが、はてさて彼女に伝わったのかどうか。
できれば、迷惑をかけてごめんなさいと、こんなところを見せたくはなかったのだと、そういいたかった。古泉が歯がゆい気持ちを覚えて、やんわりと苦笑を浮かべる様を見て、彼女は何を思ったのか、古泉に問いかける。

「起き上がれる?」

おそらく。そう言った意味をこめて頷いて、古泉は体を持ち上げた。重力に負けそうになる体をぐうっと起き上がらせると、頭の芯から痺れた。せっかく涼宮ハルヒに悟られぬように張った虚勢も台無し。少しばかりのプライドも無に帰す。

「さっきキョンからメールがきたから、保健室に行こう」

聞けば彼が説明をしてくれたので、マラソン大会もめでたく中止に相成ったのだということらしい。実は自分より喜んでいるのは朝比奈みくるかもしれないと、古泉はそう思う。
もういっそ帰りたいです。そういいたかった。さすがに考えていることまで彼女には伝わらないらしい。古泉はそのことに、ほんの少しだけがっかりする。
すこしどころかひどく汗ばんだ背中を彼女に支えられるのはひどく恥ずかしいものがあったが、背に腹は変えられない、ということだろうか。彼女も義務感というものをその小さな背中に背負っている。
しかし、彼女にも支えきれない限界というものがあった。もともと古泉との体格差が大きい上に、古泉の体に力が入っていない分彼女が古泉を支えなければならないというハンデがある。保健室に辿り着いたはいいものの、古泉をベッドに寝かせると、引きずられるようにしてその場に倒れて、ほぼ半睡眠状態に陥っている古泉につられるように眠った。

だから古泉は夢を見た。自分が、綿か何か、温かい柔らかい幸せな何かに包まれて眠る夢を見た。あんまりに夢の中の自分が幸せだから、自分は死んでしまったのかもしれないとも思った。勿論そんなことはない。
目覚めるまで古泉は、そんな幸せな夢を見ていた。目覚めても幸せな状態にあるということにはまだ彼は気付かない。



その日、古泉一樹の機嫌は最高だった。






彼の最悪にして最高な一日





めこさん、
リクエストありがとうございました!






あきゅろす。
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