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黒と白の日


流水の中に突き落とされたような、そんな奇妙な、感覚があった。
どうにもおれは小さなころから、それこそ他人にばれたりしちゃあいないが、慣れ親しんだ人から突き放されると、どえらい傷ついて、曖昧に笑うくせがあった。

話の前後につながりがなく解りづらいが、その、どえらい傷つく、の、傷つくの部分が、流水の中に落とされたような、そんな奇妙な感覚と同じなのだ。
小さいころはその、どうにもやるせないというか、悲しくってやりきれない、どう解消したらいいのか、がわからずぐだぐだと悩んでいた気がするが、大きくなるとそれなりに手を伸ばせるものが増えると言うか、考えるパターンが増えると言うか、とにかく、小さいころよりは成長した、と言うか。

有名なブランドが印刷された紙が巻きついた瓶を手にとって、目の前に置いてあった清涼感溢れる薄い青色のガラスコップに注ぐ。透明な液体は青色に溶け込んで、風でも運んできそうな勢いだった。漫画とかでよく見るが、とくとく、という擬音がまさに、今目の前で俺の耳を楽しませてくれている。
たいして度が強いものとは思えないが、十は超えているはずだ。早速嗅覚をのっとるようなきつい匂いが飛び込んできて、それだけで、流水から逃れることができたような、気がした。

飲めば忘れる、飲まねど忘れる。いつしか、やたらと女にモテたがる悪友その一が口にしていた、本人曰くの格言だ。そのときのおれは、まあ何事も覚えていたほうが良いというか、きれいごとというか、そういうえせくさい爽やかさをモットーとしていたので、こんな透明な水で全部を流してしまおうなんて考えちゃいなかった。だけど、人間、変わっちまうもんなんだな。ハルヒに言ったら、人間は進化していく生き物なのよ!と一喝されそうなことを思う。そういえばハルヒとはあんまり連絡を取ってない、なあ。

うわばみと言ってしまうにはあまりに機械的すぎる飲みっぷりを発揮した宇宙人さまさまにお前のおすすめはなんだと聞いてみたところ、無言で差し出されたのがこの、小ぶりの瓶だ。恐らくおれがあんまり強くないことを知った上で、こういった配慮をしてくれたのだろう。しかし、二本渡しちまったら意味の無いことだと思うよ。ああいう、はっとしたときに抜けたことをしてしまう長門が、おれは結構好きな気がする。

ここにあのニコニコキープの超能力者がいたら、飲みすぎですよ、と言いつつ止めないでじっと俺を見ているのだろうな、なんてことを考えてみた。考えた瞬間、後悔した。なぜおれはこんなときまで、あんなイエスマンで無駄にイケメンを思い出さねばならない。それを打ち消すように、あの天使のようなお方を思い浮かべる。キョンくん、飲みすぎはだだ、だめですよう。なんて言ってくださるんだろうな、あのかたは。

とくり、という音が止まったことに気付いてはっとすると、コップから透明な液体がもれ出ていた。ああ、もったいない、と思いつつ、緩慢な動きで瓶を垂直に戻す。垂れた液体はテーブルの上を流れ、俺の膝の上へ落ちてきた。咄嗟の判断で掌に受け止めたが、それをどうするつもりだったんだ、と自問自答して、しばし悩む。ゆっくり口の中に流しいれた。びっくりするほど苦かった。
長門、これはどうやら、えらくきついぞ。飲みきれるか、と、今更言ってもほとんど意味の無い問いかけを自分に投げかけて、溜息を吐いた。ゆびさきに伝ったくさい液を舌先で舐め取る。頭がくらくらした。ああもし、この場にあの異世界人がいたら、なんて、言うんだろうなあ。

忘れられるなら、とっとと忘れてるさ。と、心の中で一言。ぼんやりとした頭で思う。忘れちゃいけないことだとも、思っている。寧ろこれは忘れてしまうのは薄情すぎるということも、ちゃんとわかっている。わかっているのさ、そんなこと。でも、どうしようもないことだって、あるだろう。忘れたいのに忘れたくない、そんな矛盾、誰だって一回は思ったことが、あるはずだと。

不幸は、おれじゃなかった。おれの身内でもなかった。でも、心情的には、ほとんど身内のようなもんだった。たくさんたくさんおれのことを考えてくれて、たくさんたくさん色んなことを教えてくれて、親身になって、時には厳しく、おれを、育ててくれた恩師。お世話になった。好きだった。あんな人になれたらと、いつでも思っていた。二年生の後期、せんせい、あんたのゼミに入りたいんです、と言ったら、おまえが入ってくれたら、おれも嬉しいよと、からから笑ったせんせい。たったおれと一回りくらいしか違わないのに、その人は、まるで流水が掌からこぼれていくように、静かに、ひっそりと、この世界からいなくなってしまった。

じわりと世界がにじんだ気がする。ラベルの、黒い文字が、歪んだ。手を伸ばしたら、距離感がつかめなかった。すかったおれの手は、なみなみに注がれた青いガラスコップにぶつかって、倒す。ごとん、と鈍い音がしたあと、音も出さずに液体が流れてきた。

今度は、おれは手を出さなかった。液体は、フローリングの床にてろてろと流れていった。アルコールの匂いがきつい。きつすぎて、涙が出ちまう。ぐしゅぐしゅの顔になって、手の届くところにあった、小ぶりの瓶を掴んだ。そういえば、この銘柄は、先生が好きだといっていなかったか。なあ、長門。お前は知っていたのか。

泣いて泣いて、泣いたところでどうにもならないことは知っていたが、どうにもならないときだって泣いてしまうのが人間のメカニズムである。ぼろぼろに流れる涙は、きつい匂いを発する液体と混ざり合って、匂い負けして、溶け込んでいった。流水の中に突き落とされたような、そんな奇妙な、感覚があった。


ぴーんぽーん。

間抜けなチャイムがして、おれは間抜けにも瓶を小脇に抱えたまま、Tシャツの裾の部分をしとどに濡らしたまま、涙で顔がぐしゃぐしゃのまま、玄関へ向かった。新聞はいりません、と常套句を口にする用意はしていなかった。確認もしないで、ドアを開ける。口をへの字の歪めて、目をきっ、と吊り上げた、ほぼ毎日、大学で顔を突き合わせているもんだから、見慣れているけど、見慣れない顔がそこにはあった。おれは間抜けな顔のまま、なんで来たんだ、と呟いた。そいつは、デリバリーです、と呟いた。

何の?とおれは問いかけた。泣ける場所を運んできました。そいつは言って、両手を広げた。おれは飛び込んだ。




おれの部屋は窮屈で、声の通りが格段に良いアパートで、そりゃあとなりの人と交流をしたこともあるし、おれも結構ストイックな感じを装ったのだが、きっと今頃はもう、となりの人のおれに対する印象はどえらい変わっていることだろう。わんわん泣いて、情けないことに名前の腰にへばりついて、頭を撫でてもらって、背中をさすってもらって、とにかく色々してもらった。おれの部屋は窮屈で、床の上には有名な酒が湖をつくっていて、部屋的には最悪のコンディションだったことだろうが、配達員はそこにべたりと腰を下ろしておれを抱きかかえてくれた。せんせい。せんせい、どうか安らかに。安らかかどうなのかなんて俺には知ったこっちゃない。知ることができるならとっくのとうに調べてるさ、とやさぐれた心をもって泣き喚いた。
名前は。名前は何も、言わなかった。大丈夫だとか、辛かったねとか、そんなことは言わなかった。きっと言われていたら、おれはこう叫んでいたことだろう。何が大丈夫なんだ。つらかったのはおれじゃない、せんせいなんだ。と。

おれの部屋は窮屈で、泣き喚くにはスペースが足りなかったのに、名前の腕の中に頭を突っ込んだら、有名どころをかき集めた、大盛況のコンサート会場の真ん中にひとり取り残されたみたいに、広く感じた。おれの悲しみをすべて吸い取ってくれるような感覚が、した。でも、おれは吸い取られることを望んでいないから、名前の腕はただおれの悲しみを、受け止めるだけだった。

抱きしめられたまま、眠った。寝オチとはこんなものなのだろうかと、思った。大学の帰りに駆けつけてきてくれたのだろうか、資料や教科書、辞書の入った重たい鞄は、酒を吸い込んでしっかり色を濃くしていた。大惨事にはちがいないが、おれはぼんやりしたままだし、目が覚めるまで、名前も何も言わなかった。




起きたら、名前は黒い服に着替えていた。白いハンカチが手元にあって、対比的で、まぶしかった。起きたら、床の上がきれいさっぱり片付いていた。起きたら、開いたままの瓶と閉めたままの瓶と、青いコップがそこにあった。ご焼香に、と呟いた名前につられるように、俺ものそのそと着替えにかかる。汗と、酒と、色んな匂いが混ざってこれまた最悪なコンディションのように思えたが、こんな中途半端でだるっとしているおれも、せんせいはおまえらしいよと言って、笑ってくれるのだろう。服を取りに行ってきたのかと問いかけると、名前は買ってきた、とこともなげに言った。しめったTシャツを脱いで、着替えかけた中途半端な恰好を見ても名前は恥ずかしがったりしなかった。おれも、妙に恥じたりはしなかった。抱きしめてもいいか、と問いかけた。裸で?と質問が。裸で、と答えた。上半身裸の、酒と汗のにおいで最悪なおれを、やっぱりこいつも受け入れてくれた。ばかみたいに、優しい匂いがしたよ。






黒と白の日






闇鴉幻夜さん、
リクエストありがとうございました!






あきゅろす。
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