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本編
35







一度だけ、本当の名前を言ったことがある。





「お前、名前は」

こっちに来て何日くらいだったか。確かそう、突然聞かれた。それまではクソガキとかチビとか呼んでたのに。名前なんかどうでもいいのかなって思ってた。

「おい」
「あ、東、東勇歩です」

びっくりして思わずフルネームで答えたら、眉間に皺を寄せて、グリーンの瞳は不機嫌そうに細められた。
小さく聞こえた「聞いたことねぇな」という言葉に、ひやりとした。

名前でさえ、ここでは珍しい。ただでさえ目立つ外見なのに。これ以上、不安定な存在になりたくない。


それならいっそ。


頭に浮かぶ漢字の羅列。その始めの一文字。



「───アズマ、でいいです」




咄嗟に考えたにしては良い名前だった。
アズマと呼ばれ慣れてきた頃、そう思った。









黙った一歩の視線が痛い。

相変わらず手首は強く握られていて、血が止まりそうだ。頭の端っこでそんなことを考える。
でもグルグルと回り続けているのは『東 勇歩』で、つられるようにあのおまじないが浮かぶ。


俺は、


「……すごく、適当に決めたんだけど」

一歩は身動き一つしないで俺を見ている。掠れそうな声をなんとか頑張って出す。

「東からとってアズマって。本当咄嗟に。でも後から、この名前で良かったなって思った」
「っ、なんでっ」
「苗字なんてここじゃないし、俺の名前、言いにくい。それなら、もう全然違う名前の方が良いんじゃないかって思って」

なんでかな。今なら勇歩って名乗っても良かったなと思うけど、あの時は全然そんなこと考えなかった。

一歩が下を向いて、唇を噛み締める。今日何度か見た、耐えるような表情。


……あ、そっか。


一歩は『悔しい』と言った。……それから、怖かったのかもしれない。
俺が、知らない人みたいで。“アズマ”なんて呼ばれる俺が。


でも、違う。結局は。


「……東、って、日本だろ」


一歩がぱっと顔を上げる。なんか、笑えないな。きっとすごく情けない顔してる。

「後から、アズマって、日本のことだよなとか、みんなと……父さんたちと、一緒の漢字……名前なんだよなとか、色々考えて。この名前が、おまじないみたいに、思えてきて」


『俺はシュラク国営警護団、第三隊隊長、アズマ』


何回そう唱えたか。
“東 勇歩”じゃない。俺は“アズマ”で、シュラクの人間だと思い込んで。

「ここの人間にならなきゃ……諦めなきゃって思って。でも、どうしても捨てきれなかったから、この名前が、あっちと繋がってるって思って、」

だめだ。うまく言えない。

もどかしい。どうしたら伝わるんだろう。一歩の黒い瞳を見つめながら、必死に言葉を探して口を動かす。

「……俺は、どうしても生きたかったから、ここに慣れなきゃって死ぬほど頑張った。でも慣れてきたら、あっちのことが嘘みたいに思えてきて、すごく不安になって……アズマって名前だけが、あっちと俺を繋いでるみたいに、思って」

だから、この名前で通してきた。

星に願っても帰れない。
願掛けなんて嘘っぱちだ。

でも、この名前だけは、意味がある。


名前を……“あっち”を捨てたわけじゃない。


「……ここで」

ぽつ、と小さく一歩が呟いた。顔は険しいままだけど、さっきより怖くなかった。眉が下がってる。また泣かれたらやだな。

「兄貴が、変わっちゃったんだって。俺の知ってる兄貴と、全然違う。それがすごい嫌で」
「……うん」
「さっきの奴とかと話してる時の方が、なんか……素みたいだった。家にいた時と全然違うじゃん。もっと……落ち着いてる感じだった」

……そうかもしれない。

確かに変わった。あの頃は真面目と言われることが少なくなかった。一歩の前では特に格好つけていた。

でもそんなのは、ここじゃ要らなかった。

「……俺が変わったのは、ここで生きていく為だった、って……そういうことじゃ駄目?」

一歩の顔が今度こそ泣きそうに歪んだ。震えた声で「ずるい」と呟く。手を伸ばして、頭をそっと撫でる。大人しく撫でられている一歩が目を伏せる。

「……そんな、言われたら何も言えない」

うん。ごめん。

「ここじゃさ、真面目なんてクソ食らえだから」
「……そんな言葉も言わなかった」
「……確かに口は悪くなったな。変わった俺は嫌?」

小さく首を振られる。

「いい……ごめん。それで生きてくれてたんなら、なんでもいい……俺らのこと忘れたわけじゃないなら、いい」

忘れるもんか。……忘れようとして、結局できなかった。

いつの間にか、手首を掴む手の力は抜けていた。
ゆるく握られたままの手首を見て、思わず笑っていた。


こういう、話をしないといけない。
二年間の溝はまだ埋まらない。


帰れるのか……帰るのか帰らないのか、わからないけど。
とりあえず今は、この溝を埋めたい。


「……ほかに、俺の変わったとこ、ある?」


一歩の髪を撫でながら、そう聞いた。



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あきゅろす。
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