狼と忠犬
訪問中
ほんの数か月前までは、日影さまの姿を見る事さえままならなかった。
いつからか、害虫を見るようだった視線からは憎々しげな色が消え、もしかしたらこのまま卒業までお仕え出来るんじゃないかと勘違いした日もあった。けれど、夢は夢でしか無く。当然のように俺は日影さまを真正面から眺める権利さえ失った。
ま、これまでの数年間を思えば、同じ空気を吸える幸せを噛みしめるべきだ。しかも、最近の双眼鏡は性能が良い。
日影さまを待たせてはいけないと、堤からの伝言を聞いた直後に部屋を飛び出した俺は、ベルを押してから身なりを簡単に整えた。といっても大木に凭れかかっていた背中部分や腰に汚れがついていないだろうかと、急いで手で掃っただけだけれど。
「―――入れ。」
「おはようございます。失礼します。」
すぐに開いた扉から、既に制服に着替えられていた日影さまが顔を出した。
俺が通っていた時には食後に着替えていたのに、やはり風紀に入られてから生活習慣が若干変わったのだろうか。これは部屋に戻ってから、手帳に記載しておかなければ。
まだネクタイを締めていない白いシャツは、一番上のボタンが開いている。性的だ!恐ろしい程に色気が駄々洩れだ!
朝イチに俺のところまで来られたと言う事は、何か大切な、それこそメールでは問題のあるような用件なのだろう。そんな話を前にして俺の脳内はちょっと大変な感じになってしまっている。正面からお顔を拝見したうえに、シャツのボタンが、開いているとか、これは大事件である。
さすがにマズイと、何度か深呼吸してからゆっくり瞬きを2回繰り返す。
3度目に開いた視界の奥で、入れと言われているのに未だに玄関先で棒立ちの俺を待たれている日影さまが映っていた。おおおお……。
慌てて靴を脱いでテーブルの前に佇む日影さまの前まで進み、数センチ高い目線を合わせるために顎を上げた。
「昨日から帰って来ねーから、今部屋には俺しかいない。」
「あ、はい。」
「………。」
「………。」
どうやら辻本は恋人の元でお泊りらしい。風紀委員になった日影さまの前で外泊かよ、と思いつつも折角(理由はなんであれ)呼んでいただいた部屋に邪魔者がいないのは喜ばしい。
こんな機会でなければ覗き込むことなど出来ない綺麗な瞳の中に、なんともアホ面の俺が映っている。
ところで俺はなぜ、ここに呼ばれたのか。
メールではないと言う事は、なにかしらお叱りを受ける可能性が高い。というかそれしか思いつかない。
関わってはいけないと宣言されている俺が、次にこの場所に足を踏み入れる機会があるのかどうか。もしかしたら最後かもしれないチャンスなのに、部屋を見渡したり匂いとか鼻孔に力一杯吸い込んだり、日影さまが佇む様子を網膜と記憶に焼き付ける余裕さえ無い。
なにか、失敗をしたのだろうか。
まずいまずい。
「―――も、申し訳ありません……。」
まず謝罪から入ろうと頭を下げた俺の頭上で、長い沈黙が流れた。
「お前は、俺に頭を下げるような何かをしでかしたのか。」
しまった。
また間違えてしまったようである。
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