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白虹学園
つめ切り
「じゃあ、そろそろお暇しますね。今日も美味しいごはんをありがとう」
 
 綾先輩がそう言って立ち上がって、シャーベットの器をシンクに持っていってくれようとしたので、それを受け取った。佐助と一緒に部屋を出ていくのを見送って部屋に戻ると、レンが咥えたスプーンをぷらぷらさせながらこっちをじっと見ている。

「レンさん、お行儀悪いですよ」

 苦笑して、スプーンの柄を持ったら、かぱ、と口が開いた。こいつ元喫煙者なのに歯がきれいだなぁ。スプーンを取り出して、お皿と一緒に回収。夕食のお皿と一緒に洗ってしまおうとしたら、のそのそ立ち上がって隣に立ってくれた。俺が洗い始めたら、特に何も言わずにその皿をゆすいで洗い籠に置いていってくれている。自然とこうしてくれるようになって、もう随分経った。手元を見ていて、ふとある事に気が付いた。

「レン、爪が伸びたなぁ」
「あ?」

 泡のついた手を、レンが丸めるようにしてまじまじと見ている。顔を見上げると、前よりも少し上を見上げるような感じになる。

「あれ?もしかして背も伸びた……?」
「…………そーか?」
「いいなぁ。俺もうあんまり伸びないや……」

 背伸びをしてみるけど、それでもレンの背には届かない。ふ、と、レンが薄く笑った。薄い色のまつ毛。茶色の瞳が柔らかく光る。うわあ、美人。佐助や綾先輩の前でも、たまにこうして笑うようになった。随分変わった。多分、これが本来のレンなんだと思う。案外細かいところに気がついて、手先が器用で、ぶっきらぼうなところはあるけど優しい。そういうところを見られるようになったのは、すごく嬉しい事だ。

「まあ、三食がっつり食って、夜は熟睡してりゃあ、少しはな」
「あれ、それもしかして俺のおかげって言ってるか」

 げし、と、小さく尻のあたりを膝で蹴られて、俺も笑ってしまう。これからもっともっと格好よくなるんだろうか。底の知れない男だ。
 手伝いのおかげで洗い物はすぐに終わって、二人でソファに戻る。俺は救急箱から爪切りを出してレンの隣に座った。

「ほら、手出してくれ」
「あ?なんで……」
「伸びたままじゃ危ないだろ。俺上手だよ」
「…………」

 小さくため息をついて、それでもレンは大人しく手を出してくれた。大きな手を手のひらに乗せる。相変わらず体温が高い。テーブルに置いてあった雑誌を開いて下に敷いて、爪を切る。人差し指からぱちん、ぱちん、と、爪を切っていく。

「…………お前、何で帰らねぇんだ」

 少し訊きづらそうに、でもレンが訊いてきた。うん、訊いてくるとしたらレンだろうなって思ってた。少し笑って、爪を見たまま考えて言った。

「さっきも言ったけど、夏休みはずっとばあちゃんの家の方に二人とも帰ってるんだ」
「お前は」
「俺は、――――うーん、あんまりおもしろい話じゃないけど」
「何で」
 
顔を上げた。ああ、これは絶対に知りたいって顔だ。少し顔を傾けた。笑えているだろうか。うん、多分大丈夫だ。もう今更、こんな事で傷ついたりしない。

「父さんと母さん、駆け落ち結婚だったんだよな」
「……カケオチ」
「うん。母さん、まあまあのお嬢様だったんだって。婚約者的な人もいて、でも父さんの事好きになっちゃって……それで、二人逃げ出して、遠くに行って、産まれたのが俺」

 レンは目をぱちぱちさせている。うん、なんか非現実的な話だよなぁ。でも、映画や漫画とは違って、現実の駆け落ちっていうのは結構大変な事だったらしい。住むところから何もかも自分で決めて、身分もある程度隠して仕事を探して、暮らしていかないといけない。

「その後、弟が産まれて、父さんの仕事も少しずつ軌道に乗って、でも、父さんは母さんと母さんの家族を仲直りさせたかった」
「どうして」

 ぱちん、ぱちん、と、爪を切る音が響く。大きくて広い爪は、少しずつ切っていかないとうまくいかない。

「多分『万が一』の事を、考えていたんだと思う。だけど最初は勿論うまくいかなかった。父さんはおじいちゃんに殴られて、二度と来るなって言われて。でも、雷は違った。弟は、母さんに瓜二つだから。じいちゃんもばあちゃんも、雷の事は可愛がってくれているんだ」
「――――お前は?」
「それが俺が帰らない――――帰れない理由」
「…………」
「父さんが心配していた『万が一』は起きてしまった。父さんが事故に遭っていなくなって――――母さんはひどく塞ぎ込んで、それで、援助をしてくれたのは母さんの家族だ」

 『その時』の事は、そんなに昔の話じゃない。雷を育てるにも、学ばせるにも、もちろん俺にもお金が必要だった。頼み込んで援助をしてもらうにあたって、ばあちゃんは俺に言った。『あの男が死んでせいせいした。だから二度とお前の顔は見たくない』と。

「それで、二人が暮らしていけるなら、安いものだと思う」

 ふと、レンの体に力がこもったような気がして、また彼の顔を見る。思った通り、彼は怒ってくれていた。眉間に皺を寄せて、眼を鋭くして、俺を見つめている。嬉しくなってしまう。こんな風に、俺の事を想って怒ってくれるひとがいる事に。

「いいんだよ。父さんは『万が一』に備えて、耐えた。俺もそうしたいと思ってるんだ。もし、『万が一』、母さんや俺に何かがあった時――――母さんの家族に頼れば、少なくとも雷がお金で苦しむ事はないだろうから」
「お前は」
「え?」
「お前は――――どうなる、その時」

 少しびっくりして、でも、その優しい友だちの手を握る。あったかい。もう、血がついたり、煙草の匂いがすることもなくなった手。レンが成長した証。

「俺は、大丈夫だよ。そのために一生懸命勉強をしてる。白虹学園の特待生ですから」

 冗談めかして言ったら、レンの眉間の皺はもっと深くなってしまった。その短い髪を撫でたくなって、でも堪えた。最近は、レンは俺がそうやって撫でたりすると、なんだかへんな顔をするから。むっとしたような、何か言いたげな、そんな顔を。レンは成長した。それの一端になれたのだとしたら、それはとても誇らしい事だ。だけど少し寂しい。まあ、普通は友達の頭を撫でたりなんてしないもんな。雷をかわいがり倒す人生を送ってきたからか、俺の距離感はちょっと普通じゃないらしい。レンがそれを嫌がるようになったら、それは仕方の無いことだ。

「はい、できたよ」

 爪を切って、少しやすりをかけて、レンの爪がきれいな丸い形になったのを見て嬉しくなる。レンは子供みたいにその手を広げてまじまじ見つめていた。こんな風にさせてもらえるのはあとどれくらいだろう。綾先輩が卒業したら、俺たちも間もなく最上級生になる。佐助とも、レンとも、思い出をたくさん作っておきたい。



『万が一』の時のために――――なんて大袈裟な事ではないけど、人が思っていたよりあっけなくどこかに行ってしまう事を、俺は知っているからだ。





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あきゅろす。
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