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第10話後編 1


 我慢できずに形兆が教室に踏み入ったとき、女は悪びれることもなければ焦ることもなかった。
 いびりの現場を見られているというのにその姿勢はあまりに堂々としていて、並の人間であれば思わず自分のはやとちりだったのではと困惑しただろう。
 香澄に対する怒りを堪えきれないといった様子で溜息を吐くと、女は迷いのない足取りで形兆の隣をすり抜けていく。
 憎悪のこもった瞳が形兆の目に焼きついて、思わず形兆は目を開いた。

「う……」

 床に広がる自らの吐瀉物を形兆に見られ、香澄は身を震わせた。
 当然だろう。見られて心地いいものではないはずだ。
 お互い、なにをどう言えばいいのかわからない。しばし気まずい沈黙が流れる。
 耐え切れなくなって形兆はぎこちなく口を開いた。

「だい、じょうぶか」
「あ……う、うん。髪留めは無事だから」

 髪留めを掲げてみせる香澄の手は、女に踏まれて赤くなっている。
 香澄は形兆を安心させるように笑みを浮かべてみせた。しかし、胃液と唾液で汚れた唇が弧を描いても余計に悲壮感をあおるだけだ。

「そうじゃねぇだろ」

 苛立ったように形兆が言うと、香澄はうろたえるように困った顔をした。自分が心配されているとは思ってもいない表情だ。
 香澄は床にへたり込んだまま、再度ごまかすように笑う。今度は口を大きく開けての豪快な笑いだ。

「ごめんね、へんなとこ見せて! な〜んか汚い現場見られちゃって恥ずかしいなぁ……わたし、コレの掃除しないといけないから授業遅れちゃうや。先生には適当にごましといてくれるかな」
「俺がそうしてやるって思ってんのか?」
「う……。でも、隣の席のクラスメイトとしてそれぐらい協力してくれてもいいじゃない」

 ちょっと気まずそうな顔をしたあと、香澄はあっけらかんとして言い放った。
 くりくりと動く目とにっこり笑顔で形兆を見つめる表情だけを切り取れば、直前まで女にいびられ怯えていたとは思えない。
 周囲に吐瀉物が広がっている状況において香澄の態度は異様だ。内心で舌打ちを堪える。

「ピンクスパイダー使ってみろよ。お前の感情次第では教師に伝えといてやる」
「……使う必要性が見あたらないなぁ〜」
「こっち向けよ、おい」

 座ったままの香澄にあわせてしゃがみこむ。手首を掴んでひっぱると、香澄は唇を引き結んで顔ごと視線をそらした。

「ああくそ、おまえ……口元きったねーんだよ、さっさと拭くなりしろよ」
「に、虹村くんが授業行ったらそうするよ……」
「今やれよ」
「ハンカチ。いまないの。服の袖ではふけないでしょ」
「廊下に水道があんだろ。素直に腰が抜けて立てないって言えよ」
「うっ……べ、別に立てるよ。立たないだけ」
「じゃ今すぐ立て」
「うぅ……」 

 香澄は痛いところを突かれた、と言わんばかりに口元を歪ませ、顔をそらした。

「ガキみてーにくだんねー意地張ってんじゃねぇよ」
「それ虹村くんには言われたくないな」
「あぁ?」

 眉をひそめて聞き返すと、うなるような声が怖かったのか香澄はぴくっと肩を跳ね上げた。
 気まずくなって立ち上がる。
 廊下にある水道で自分のハンカチを濡らして、教室に戻って香澄に差し出す。

「ほら」
「え?」
「使えよ」
「でも」

 香澄が目を丸くして、困惑げに形兆を見つめた。
 いつまで経ってもハンカチを受け取らないので、形兆は香澄の口元にムリヤリ押し当てた。汚れをぬぐう力加減がわからず乱暴になってしまい、香澄はそれをいやがって身をよじる。

「じ、自分でできるから……」

 指に添えられた手の冷たさにギクリとする。
 香澄が自分の口元を清めている間、吐瀉物の処理を進めようとロッカーから雑巾を取り出した。気付いた香澄はあわてて立ち上がろうとして、膝が立たずに折れてしまう。

「自分でやるよ。虹村くんにさせるわけには……」
「てめーはいいからじっとしてろ」

 立ち上がろうと奮闘する香澄を手で押し留めた。
 睨み付けると香澄はひるんで、しゅんとして再び座り込んだ。
 形兆は九割がた未消化の吐瀉物を雑巾でくるんで持ち上げる。ゴミ箱に捨てるのもなんなので最寄のトイレに流して、廊下の水道で雑巾を洗い、水を絞って教室の床を拭いた。
 綺麗に拭いてもかすかに臭いが残っている気がして、ごしごしと床に雑巾を押し付ける。そうしていると何故自分が香澄の後始末をしてやっているのかわからなくなる。

 もうすこし――もうすこし早く形兆が踏み込んでいれば、香澄がこんなことをするハメにもならなかっただろう。
 所詮他人事だ。遅い早いではなく、教室に踏み込むことそのものをするべきではなかった。形兆の理性はそう苦言を呈し、もっと早く助けるべきだったと罪悪感を負っているのが形兆のなけなしの良心だ。

「ごめんね、虹村くん……」

 香澄がはじめて、しおれるような声を出した。先ほどまでの装った明るさではなく、捨てられた子犬のような哀れさで。
 咳き込むのをこらえるような、押し出すようなかすれ声。
 フォローしてやることも、遅くなって悪いと謝ることもできずに、形兆はこくりと頷くに留めた。




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あきゅろす。
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