回答拒否 最終話 春が死んだ日 中編1 雨上がりの湿った風に吹かれながら、香澄は髪の毛を押さえた。 せせらぎの音が耳に心地いい。自宅にほど近い川辺に、香澄はいる。 どうしてこんなところにいるんだろう。 周囲を見渡しながら歩こうとすると、自分が素足なことに気が付いた。周囲を見渡すが、自分の靴が見当たらない。 仕方なしに香澄は、素足のままで歩き出した。 川の音を聞きながら川沿いをずっと歩いていくと、誰かが川岸に倒れている。 慌てて香澄は、びしょ濡れの誰か──服装や髪形からすると女性だ──に駆け寄ろうとした。しかし先に、誰かが後ろから飛び出した。 「大丈夫かッ!!」 叫び声は父のものだった。 女性に駆け寄った父は彼女を抱き起し、必死に容体を確認する。 頬に張り付いた髪の毛を耳元に寄せ、意識がないことがわかると心臓マッサージを始める。 夢だ。 と、香澄は思った。 そう思った瞬間、場面が微妙に移り変わる。 いつの間にか救急車がやってきていた。 サイレンの音が鳴り響く。展開される担架の物音。やじうまの話し声。母の名を呼ぶ、父の叫び。 人垣の隙間に、小さな香澄がいる。当時五歳。世界は家族と保育園の友達でできていた、あの頃の。何も知らない愚かな子供。 『わたしが死んじゃえって、言ったから』 幼い香澄の口から、絶望の言葉が滑り落ちる。 幼い香澄にかける言葉が見つからない。他人に対してならばスラスラと出てくる優しい言葉の数々を、自分自身に対して語りかけてやることができなかった。 不意にアスファルトの地面ががらがらと崩れ、香澄はバランスを崩してしまう。 突然空いた大穴に落ちる瞬間、すんでのところで足場を掴む。しかし今にも指が外れ奈落の底へと落ちてしまいそうだ。 香澄がそうなっているのに、通行人も救急隊員も誰も気付かない。 母を介抱することに夢中で、すぐそばの異変になど目もくれない。 ──たすけて、お父さん! 香澄そばにいるはずの父の名を叫んだ。すると父が香澄をの香澄込む。 香澄は、助かった、と思った。助けてもらえると思った。 しかし実際は、父は香澄を見下して冷ややかな目を向けるだけだ。父の傍らにいる妹もまた、香澄を蔑んで見下げ果てるだけ。 助けて……と叫ぶ声が出なくった。 人殺しのくせに。 父のくちびるが動く。 あいつを殺したのはお前の癖に、お前は自分が死にそうになると助けをこうのか。 非難の言葉が、雨のように香澄に降り注ぎ、ナイフとなって切りつける。 気がつけば日溜まりのなかには家族ではなく形兆がいた。静かに自分を見下ろしている。 ──たすけて、虹村くん── 香澄は泣きながら手を伸ばした。 形兆はそんな香澄を見て──。 *** 「あぁああああッッ!!」 「うわびっくりした。どーしたの香澄チャン」 「……ゆ、夢……?」 自身の叫び声で目を覚ました香澄は、荒い息をしながら飛び上がった。 意識と視界がぼんやりとしてはっきりしない。 ここはどこだろう。香澄は息を整えながら考える。 委員会のため、学校に向かっていたことは覚えている。 たしかそこで、近道のために路地裏に入って──。 思い出した。急激に意識が覚醒し、ぼやけていた視界がクリアになる。 がばりと身じろぎすると、嬉しそうな男と目が合った。 男は香澄の鞄を漁り、中身を地面にぶちまけている。 「目ェ覚めた? 香澄チャン」 「あなたは……。どっどうしてわたしの名前」 「ああ、学生証見させてもらったよ。まさかそっちの二人の家族がキミとは思わなくてびっくりしたよー」 男は笑いながら、顎をしゃくった。示す先には、先程までの香澄と同じく、地面に倒れこんでいる妹がいる。 肩を怪我しているのか、首のあたりの地面に小さな血だまりができている。 開いたままの目には正気がない。 「澄泉!」 反射的に悲鳴をあげる。心臓がぎゅっと冷え込む。 ピンクスパイダーは妹の心音を的確に聴き取った。とくとくとく、と、弱々しいが確かに脈打っている。流血の音がしないので肩の傷の血は止まっている。だが、安堵はできない。 飛び回るハエが妹の頬に留まり、足をすり合わせた。ちょこちょこと移動するうち、妹の目に留まった。 白目の部分に足をつけ、黒目をぺたぺたと触る。 妹は微動だにしない。反射的に振り払おうと手を動かすことも、顔を振ることも、瞬きすることもしない。 気絶していると肉体の反射すらも停止するのだろうか。そんなことがあり得るのだろうか。 妹の無反応さが、香澄の恐怖心を刺激する。焦燥に掻き立てられて、香澄は逃げ場を探して周囲を見渡した。 季節の植物が植えられた花壇に、よく整備された道路、常緑樹。ハイキングやボール遊びに適した広場。香澄と形兆の家の中間地点にある、森林公園だ。 通常ならば健康のためにランニングや散歩する市民がいるはずだが、見当たらない。 敷地内に人がいなければ森林公園で叫んでも住宅地の人間は誰も気がつかないだろう。 どうにかここから逃げ出して、森林公園から出ることができても、人のいる住宅地にたどり着けるとは思わなかった。 「……わたしと妹を、どうしようっていうんですか」 香澄は慎重に言葉を選び、目の前で香澄の鞄を物色している男を上目遣いに睨め付けた。睨め付けながら、自分の言葉に違和感を抱いた。 ──わたしと妹を? ──この人はさっき、『そこの二人の家族とは思わなかった』と言った。 しかしこの場にいるのは香澄と倒れている澄泉、そして男だけだ──と、そう思った瞬間、香澄の耳はもう一人の心音を聴き取った。 急に聞こえたわけではない。森の中で木の葉擦れの音が聞こえるのと同じように、あまりに当たり前すぎて、脳が気がつかなかっただけだ。 背後に誰かいる。気配がなさすぎて、無意識に除外していた心音。 おそるおそる振り返ると、そこにはよく見知った男がいた。伸び放題のヒゲ、髪の毛。老成した目元。 「──お父さん!」 身じろぎすればすぐ接触する位置に父がいる。だというのに気がつかなかった。 肩を跳ねあげて、無意識のうちに身を引いて距離を取ろうとした。その瞬間。 腕を掴まれた。万力で締め上げられるように、握りこまれる。 「い、痛いよ……!」 「あぁ〜動かないほうがいいよ。それには君が逃げ出さないように『指令』を出してるから、動くと反射で掴んでくるから」 「指令? 反射?」 父は痛みに顔をしかめる香澄に、ろくな反応を示さなかった。香澄を見てすらいない。反射的に振りほどこうとする抵抗をやめ、身体から力を抜くと、父の腕からも力が抜ける。 感情を削ぎ落した無表情で、父が佇んでいる。 ショーウィンドウに展示されているマネキンだって、もっと表情があるだろう。 しかし何より香澄の表情を強張らせたのは、父の肩に食い込んでいる銀色の刃だ。生きているかのように脈打ち、父の肩の肉と一体化しているように見える。 スタンドによる実戦経験がない香澄にも、父の異常がスタンド攻撃によってもたらされていることがわかる。 そしてこれがスタンド攻撃によるものなら、本体が誰であるかなど明白だ。 香澄は首をぎこちなく動かして、目の前にしゃがみこんでいる男を見やった。 にこにこしていて、男の声に敵意は感じられない。男の指先が血で汚れているのは、香澄の血だろう。気絶する直前、思い切り手刀で殴りつけられた。その時のものだ。 「……目的はなんですか」 香澄の声は自然と鋭くなる。 最近世間を騒がせている通り魔事件のこともある。常人には見えない、スタンドという才能によるものだとしたら、犯人が捕まっていないことも納得できる。 目の前の男が犯人かもしれないと思えば、自然に息をするのが難しくなる。 たとえ自分にどうなったとしても、家族に危害が加えられることは避けねばならない。 守るべき家族に手を拘束され逃走を封じられている状況で、香澄は静かにそう思った。 そのためにまずは男の目的と自分の置かれた状況を判断し、そのうえで行動しなくてはならないのだ。 男は香澄の言葉にきょとんとした。目を瞬かせて首を傾げる。 「香澄チャン、あんまり驚いてないね。やっぱり形兆サンと一緒にいるとこういうことって何度もあるもんなの?」 「え……へ? なんでそこで虹村くんが……」 香澄が言い終えるより先に、男は香澄に手を伸ばした。 両手で香澄の頬を包み込み、父親が子供をあやすように優しく撫でる。その手つきに香澄の背筋にぶつぶつと鳥肌が立っていく。 「今まで何度襲われた? 形兆サンはどんな反応してた? こういう時形兆サンを呼べば命だけは助けてやるよって言われてきたかもしれないけど……今回は違うんだ。ごめんねー」 「だからなんで虹村くんが……っ」 男は香澄の耳を指先でさわさわと撫で上げる。香澄はその動きをいやがって身じろぎするが、父親に両手を拘束されていてはろくな抵抗もできない。 香澄の耳に取りついている補聴器型のピンクスパイダーに興味を示し、男はそれを取り外そうとしているのだ。 「あれぇ、これ取れないね」 「ぅあっ……! い、痛いっ……!」 男はわずかに眉根を寄せた。片手で香澄の頭をひっつかみ、力を込めてピンクスパイダーを取り外そうとする。ピンクスパイダーを視認して触れられるのだから、やはりスタンド使いだ。 しかし補聴器型のスタンドは香澄の耳と半ば同化していて、外すことはできない。 力任せに肉を引き千切られそうになり、香澄は悲鳴を上げた。 本当に耳たぶごと引き千切られる、と思った。痛みで脂汗が染み出し、脳が警鐘を鳴らす。抵抗しようと暴れようとした瞬間、両手を他ならない父に封じられてびくともしない。 「あっ、が、ぐ、ぅ、う……!」 痛みに奥歯が不自然にガチガチ鳴り響く。 ややあって男は香澄から手を離した。耳から吹き出た返り血を、指先から垂らしながら。 「この補聴器、取れないし壊れないんだね。最近のは高性能だなぁ」 「な、なんでこんなことするんですか……」 涙目になりながら、香澄は息の塊を吐き出した。引き千切られそうになった片耳がじくじくと痛む。 恐怖を覚えたのは、男の声音にだ。 男には敵意がない。悪意もない。ただただ、楽しさだけがピンクスパイダーから伝わってくる。 そのことが恐ろしい。どんな人間だって、人を傷つけるときには心拍数や感情に変化が出る。衝動的な行いだとしても、突発的に怒りや敵意がにじむものだ。 しかし男にはそれがない。自販機でジュースを買う程度の些細な感覚で人を傷つけられる人間なのだ。 胸に嫌悪感と焦燥がせりあがっていく。 こんな人間と出会うのは初めてだ。感情を探知する能力を持つ香澄にとって、相手の動向がわからない、タイミングがわからないというのは心底恐ろしい。 ピンクスパイダーには戦闘能力がない。他者の敵意を向けられた時、なにもできない無力なスタンドだ。 香澄はその事実を肌で実感していた。 望みがないとわかっているから、香澄はせめて父に呼びかけた。 「おっ……お父さん! 目を覚まして! お願い!!」 「あ〜ムダだよムダ。その人、もう声聞こえないよ」 「お父さん!! 澄泉!!」 声を荒げ、背後で自分を拘束する父と、目を開けたまま気絶している妹に必死に呼びかける。 男に見えない位置に発動させたピンクスパイダーで、自分の声を父の胸へと叩き付ける。 しかしどれだけ呼びかけても父は無反応だ。父も澄泉も、まるで香澄の声が聞こえていないよう。 「だから、無駄だって。ボクの『マスターオブパペット』は人を操るスタンドだ……キミが呼びかけたところで、意味ないよ」 「……人を操る?」 こくりと男は頷いた。それが弱点を露呈することだとは思ってもみない表情で。 [*前へ][次へ#] [戻る] |