薄桜鬼小説
剣光(斎藤×千鶴)08.11.10
頬に当たる風が冷たくて、深夜ふいに目を覚ます。
隣に眠るはずの一の姿が見当たらず、千鶴は静かに起き上がった。
斉藤さん、と声を掛ける前に、小さな枝がパキリと音を立て、数歩先に一人座る一が視線だけを投げて寄越す。
千鶴は一瞬、彼の邪魔をしてしまったのかと怯んだが、一の纏う空気が自分を拒絶していない事を感じると、静かに隣へ腰を下ろす。
直接承諾の言葉は受けていないが、今一が自分を受け入れたということは、長い時を共に過ごしたおかげか、いつのまにか自然と分かるようになっていた。
「起こしてしまったか?」
一言目を探っていた千鶴に一が短く言った言葉に、千鶴は場違いであることは承知の上で思わず、ふふ、と笑みを零す。
どうやったら、探さねばならぬ程離れた一が千鶴の眠りの邪魔をすることが出来たのだろうか?という単純な疑問が、彼の気遣いの中に浮かぶ。
(斉藤さんらしい)
こんな夜にも人に気遣いが出来るだなんて、なんて優しい人なのだろう、と千鶴は隣に座る決して口数の多くない剣士に、先ほどの問いかけに答えるように小さく首を横に振る。
「いいえ。勝手に起きたんです。そうしたら斉藤さんのお姿が見えなかったので」
だから探しに来たんです、と千鶴は言外に告げると、そうか、と一は小さく頷いた。
「……柄にもなく、眠れなかった」
ぽつりと。
常に多くを語らない、ましてや自分の心情を吐露する事など稀有に等しい一の独白のような言葉に、千鶴は自分の耳を疑うように視線を上げる。
一は千鶴に視線を合わせようとする素振りも見せず、闇の中ただ一点を見つめたまま、まるで懺悔をするかのようにまた口を開く。
「正直に言うと、今までも大きな戦の前日は、よく眠れた試しがない」
千鶴の中の一像からすると意外な言葉に、千鶴は一度大きく目を瞬く。斉藤さんのような人でも緊張するのかな?と千鶴が考えを巡らせていると、一はようやっと千鶴に視線を向けたかと思うと、千鶴の表情に、ふっと目を細めた。
「今までに、何十、何百と人を斬り捨ててきたくせに今更何を言っているんだと、おまえは笑うか」
ちらりと送られた一の視線に、自分に問われているのかどうかは定かではなかったが、千鶴はその問いに答えるかのように、静かに首を横に振り同意していない旨を示す。
今までに一がどれだけの人を斬り葬ってきたかは知らないが、一はそれに慣れてしまう人だとは千鶴は思っていなかった。
「確かに、人を斬る為に剣を振るうという行為には慣れてしまっていたかもしれない。だが、己の明日の為に剣を振るい人を斬るという感覚には、一度として慣れた試しがない」
矛盾しているな、と一にしては珍しく自嘲気味に笑った。
「人を斬らねば自分がやられる。自分が斬られぬ為にまた人を斬る。この繰り返しが、結果として自分に今日という日をもたらしているのだから、本来ならば、俺は人を斬るという行為が己の明日へと繋がっているという事を認め、受け入れるべきなのだという事は分かっているつもりだ」
いや、と一は小さく否定の言葉を挟む。
「俺は本当は、人を斬るという行為が明日を運んでくるのだという事を、とっくに知っていた」
まるで禅問答のような一の独白に、千鶴はどう反応していいかわからなかった。
それでも一は、別に千鶴に意見を乞う様子もなく、堰を切った様に言葉を紡ぐ。
「おまえにはいつか言ったかもしれないが、俺は剣を振るう事しか出来ない。だから俺の剣は人を斬り、俺はそれで刹那を生き、その結果として、俺の剣は俺に明日をもたらした。だが、自分の明日のために奪っていい命が、はたしてこの世の中にはあるのだろうか?今までにそう考えた事が一度もなかったとは、正直言い切れない」
千鶴はただ黙って一の話を聞くことしか出来なかった。
一の言う通り、自分の明日の為に奪っていい命があるとは思わなかった。だが、奪わなければ勝ち取れない明日があるのもまた事実だ。だから、どちらが正しいとは一概には言えないなとは思ったが、人を斬った事の無い自分には分かるはずも無い問いかけだ。
だから千鶴は一にどんな言葉を掛けていいのかすらわからなかったが、第一、一もそんな自分に答えを求めているようには思えなかった。
その証拠に、一の視線は先ほどから一度として千鶴の方へは向いてはいない。
数秒の沈黙の後、一は更に自分自身に問いかけるように先を続ける。
「俺は、自分が死なない為に人を斬った。俺が死んでいないという事は、少なくとも新選組にとっては有益な事だからだ。己の明日の為に奪っていい命があるかどうかは分からなかったが、少なくとも新選組の利益の為に剣を振るうという事は、自分に納得がいった。だから、自分の剣は己の明日の為に振るわれたものではないと、当時の俺は信じていた。だが、もしかしたらそれは、自分を誤魔化していただけだったのかもしれない」
一の夜の闇のような瞳が一瞬揺らいだ気がして、千鶴は思わず目を瞠った。
自分の信念に迷いが生じたのだろうか?答えが出ないのか、それとも答えを出す事を躊躇っているのか、千鶴には判断がつかなかった。
「今でも、その答えは分からない。結果として俺の剣が明日の為に振られていたという事を知っていたくせに、当時の俺はそう認めたくなかったのだからな。自分の為に振るう剣が人の命を奪っているのだという事実を頑なに認めたくないと思っていたのだから、その感覚に慣れようもない」
堂々巡りだな、と一は笑った。
本来ならば、戦に備えて決戦前夜は体力温存も兼ね、睡眠はしっかりととっておくに超した事はない。一度戦が始まってしまえば、次いつ眠れるかも定かではなく、冷静な判断力を失わない為にも、睡眠は大事なものなのだ。判断力の欠如は命を落とす要因に十分といっていいほど成り得、それは新選組に多大なる損害をもたらす。
それは、新選組の利益の為に剣を振るうと言う一の意志にはそぐわない行動と言うべきか。剣を振るう本当の理由から目を逸らしたいと願うゆえその感覚に慣れず、その為大事な日に限って眠れなくなるという一の矛盾を笑っているのだろうか。
「だが、今はどうだ。今俺は、自分の明日の為に剣を振るおうとしている。おまえと明日を生きる為に、人の命を奪おうとしている。はたしてこれは許されることなのか?今まで俺が否定してきた事に対して、俺は剣を振るってもいいのだろうか?」
その答えは、やはり未だ出てはいないのだろうな、と千鶴は苦悩を浮かべる一の表情に思う。剣に対して人一倍、いや、人とは比べ物にならない程向き合ってきた一だからこそ、到ってしまった考えに納得のいく答えを探してまた悩むのだろう、と千鶴は自身の表情も曇らせる。
千鶴の為に剣を振るおうとしている決意が一を悩ませているという現実は、千鶴にとってそう嬉しいものではなかった。
「慣れぬ事をしようとしているせいか、見ろ。眠れぬどころか、先ほどから手の震えが止まらない」
一はそう言って自嘲気味に笑うと、右手で覆い隠していた自分の左手を千鶴の方へと差し出した。
(あ……)
それは微かに、本当に微かにではあったが、一の左手は震えを刻み、その振動を千鶴にも伝える。
千鶴すら一らしからぬと思う状況に、当の本人が困惑していないはずもなく、一は出口のない迷宮に迷い込んでしまったかのような疲弊した顔でまた口を開く。
「俺は今、もしかしたら初めて剣を振るうのが怖いと感じているのかもしれない。剣の為に生きてきた俺が何を言っているのかと笑うか」
自分自身でも戸惑うような本心の弱さを吐露されて、誰が笑う事が出来るというのだろうか?
千鶴は返事をする代わりに、微かに震える一の左手をぎゅっと握った。
「俺は、人を斬る為だけに剣を振るってきた。明日を生きるという結果は、それについてきたただの副産物でしかなかったはずだった。だから俺はその理由がどんなものであったとしても、無視をする事ができた。だが今、俺は結果の為に剣を振るおうとしている。おまえと生きる為に剣を振るおうとしている。俺が剣を振るう意義が、変わってしまった。それでも俺は、今までと同じように剣を振るえるのだろうか?俺の剣は、おまえを守れるのだろうか?」
弱々しく自問するような一の呟きは、夜の闇にそれでも凛として響き、千鶴は自分に告げてくれた一の心の底からの叫びに、泣きたくなるのをどうにか押さえた。
自分が何を語る事が出来ようか、という思いが頭の中にちらつくが、どうしても今自分が何かを言わなくてはいけないような気がして、千鶴は小さく頭を振ると決意をしたように一度きゅっと口を結ぶ。
「私は、斉藤さんを信じています。もし、斉藤さんが仰っていた通りに、今まで剣を振るっていた理由がそうだったとしても、斉藤さんの剣は私を守ってくださいました。だから、その斉藤さんの剣を振るう理由が変わったからといって、斉藤さんの剣が変わってしまうとは思いません」
上手く伝えられない自分がもどかしく、足りない言葉を埋めるように千鶴は一の瞳を真正面から捉える。一は一であってそれは何があっても変わらない、そう伝えたかったのだが、それは上手く言葉になっただろうか?
「もしまだ決心がつかないと仰るのなら、その剣に大義名分が必要だと仰るのなら、私の為に剣を振るってはくださいませんか?……正直、私は守っていただくだけの自分を悔しく思います。ですが、その事が斉藤さんの剣を振るう理由に成り得るのだとしたら、私は自分の不甲斐無さを誇りにすら思うことが出来ると思います」
見つめる視線の先で、揺れる一の瞳が大きく見開かれた。
守られるという立場が自分の気持ちを重くしかしていなかったのは事実だ。もし自分の太刀で自分の身を守る事が出来たらどれだけ気持ちが救われただろうと、常に思っていた。
だが、今もしその自分の情けなさが一人の剣士を救う事が出来るのだとしたら、喜んで自分の弱さを受け入れようと千鶴は迷いもなくそう思う。
「……おまえは、強いのだな」
「え?」
細められた一の瞳は、そのまま緩やかな弧を描いて笑みを作った。
自分は守られねばならぬ弱い存在だ、と告げたばかりなのに真逆の表現で自分を表され、千鶴は戸惑いのまま大きく瞬く。
「あ、あのっ、違いますっ!強いのは斉藤さんでっ、私はむしろ、その、守られないと……」
何が何だかわからなくなり、千鶴はしどろもどろに言葉を紡ぐしかなく、真正面から見つめる一の視線をかわす様に視線を彷徨わせる。
その表情が面白かったのだろうか?一は今度は分かるように微笑むと、空いていた右手で千鶴の頭をくしゃりと撫でた。
(斉藤さん?)
「……そろそろ戻るぞ」
「あ……はい」
一は短くそう言うと、立ち上がるために千鶴に預けていた左手をするりと抜き取る。
千鶴は釣られる様に視線でその手を追うと、その手が今度は自分の方へと差し出されたことに驚きつつも、しっかりとその手を握る。
「おまえのおかげで、今夜はよく眠れそうだ」
一瞬だけ向けられた微笑が、月明かりに照らされ鮮明に千鶴の眼に刻まれた。
月光に包まれたそれはとても美しく、もうその瞳には一筋の迷いも浮かんではいなかった。
「……やっぱり斉藤さんはお強いんだと思います」
千鶴は小さな声でそう呟くと、嬉しそうにその頬に微笑みを湛える。
やはり一には大義名分など最初から必要なかったのだ、と一の晴れやかな横顔に思う。
(それに……)
大義名分などなくても剣を振るえる身でありながら、千鶴の弱さを責めることなく、その上まだ守ろうと思ってくれる強さが嬉しかった。
隣を歩く一の左手は、まだ千鶴の右手に繋がれたままであった。
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