薄桜鬼小説
奈落の果て(沖田×千鶴)08.11.6
 一度血を口にすれば、後はただ堕ち行くのみだ。
そう嗤った鬼は、一体どんな顔で嗤っていただろうか?



 千鶴は急に悪寒を感じたような気がして、嫌な予感にぴたりと歩く足を止める。
もう夜中だというのに額に玉の汗が浮かんだような気がして右手を当てると、じとりと嫌な感触が指先に残る。

(ああ、駄目……)

千鶴は身に覚えのある感触に、全身の血が逆流するような感覚を覚えその場に立ち尽くす。たった今自覚した感情は、人が欲すものではない。
その事実が、知らず千鶴の身体を小刻みに震わせる。
己自身へと向けられた恐怖の感情が、カタカタと小さな音を立てて歯の根を震わす。

(こんなこと、思っちゃいけないのにっ……)

千鶴が胸に欲する感情に押しつぶされそうになる身体をぎゅっと抱きしめると、聞こえぬ足音が気になったのか、先を行く総司が足を止めて振り返った。

「……千鶴ちゃんっ?!」

心配気な声音は、血の気が引いて蒼白になった己の顔色へ向けられたものか、それとも。

「もしかして……」

「!!」

千鶴の様子から、胸の奥に仕舞い込んだ真実に気づいてしまったように、総司が苦しげな、しかし気遣わしげな視線と共に言葉を告いだが、千鶴は皆言い終わる前に両手で総司の口を塞いだ。

「言わないで、ください」

例え己の欲望に気づいてしまったとしても。

「大丈夫、ですから」

見ない振りをすれば、それは見えない事と同じになる。
千鶴はそう自分に言い聞かせると、総司の口を押さえたまま、うつむいて視線を下げる。
消化しきれない感情がまるで涙となり現れたようで、千鶴の瞳から小さな粒が、一つ、また一つと零れその頬を濡らす。

(血が、欲しいだなんて)

どうして考えてしまうんだろう?
それは人として生きるにおいては、おぞましい感情だと言うのに。

(私が強くなかったからだ)

初めて羅刹の発作が起きた時、理性はいとも簡単に自分の欲望に負けてしまった。
自分の想いは血の味に影響させるのだろうか?総司の血は甘美なる甘さで、今まで口にしたどんなものよりも自分の味覚を満足させた。
ああ自分の血も総司にとって同じであればいいのにと、胸に願ったその思いさえ、もう人の物ではなかったというのに。

「……」

千鶴の涙の粒が何度か土を濡らした後、ふう、と頭上で小さな溜息が聞こえたかと思うと、総司が自分の口許から優しく千鶴の手を外すと、身を屈めて、下から覗き込むような形で千鶴を見上げる。

「血が、欲しいんでしょ?」

まるで幼子に菓子が欲しいかと尋ねるかのように問う総司に、千鶴は息を呑んで目を見開く。
欲しいと、すぐそこまで出かかった言葉をどうにか飲み込むと、代わりに首を左右に小さく振った。

「欲しく、ありません」

短くそう言うと、本音が出てしまわないようにぐっと奥歯に力を込めて噛み締める。

本当は、欲しくて欲しくてたまらないのに。

目の前に総司がいなければ、きっと立っている事すら叶わぬほど血を求めて朦朧とする意識は、正気をどこかに押しやってしまいそうだ。

「本当に?」

真っ直ぐに見つめてくる総司の視線に、千鶴はびくりと身体を身じろぐ。
今手を伸ばされ額に玉する汗を触られれば、それが嘘だとすぐにばれてしまうのは目に見えている。出来る事ならば距離を取りたいと願ったが、己の身を立たせるだけがやっとの身体はそれすらも叶わなわず、ただそこに立ち尽くす事しか出来ない。

「……本当、です」

本心に反する言葉を口にする度に、自分の身体から血の気が引いていくようだった。

(夜でよかった)

月明かりの下では、誰の顔も青白く映るに違いない。
血を欲し、それを我慢する為に血の気が引くだなどと、察しても欲しくはない。

「……そうかな?」

総司は少し困ったような顔で笑って見せると、突然千鶴の小太刀に手を掛ける。

「なにをっ……」

飛びそうな意識をどうにか踏み留まらせていたせいか、千鶴の反応は通常の動きよりも少し遅れた。その隙を総司が見逃すはずもなく、千鶴が止めるより早く総司は鞘からその刀身を少しだけのぞかせると、おもむろに刃に自分の親指を当て、すっとそれを上に引いた。

「!!」

じわり。切り口から総司の鮮血が沸きあがると、千鶴の視線はそれに釘付けになる。

(あ)

「我慢はよくないよ」

「ちがっ、私はっ……!!」

総司は千鶴の視線に気づくと苦笑にも似た笑みを浮かべ、聞き分けのない子供を叱るように優しい声音でそう言うと、血の滲む自身の親指を、抗議の言葉を口にしようとした千鶴の口に当てそれを封じた。

(ああっ……!!)

ぬるりとした血の感触が千鶴の舌先に到達した瞬間、その甘さを噛み締めるように千鶴はそっと両の眼を閉じる。血を我慢していたせいか、以前それを口にした時よりも遥かな旨味を感じ、内なる声に答えるかのように、千鶴は当てられた総司の親指を無意識に口に含む。

もっと、もっと、もっと。

羅刹の身体である総司の指からは、流れ出る血の量が決まっている。人と異をなすその身体の傷が癒えるまでの時間は、普通の人間に比べると瞬きのように短い。
千鶴は限られた時間に流れる血を、一滴でも多く口にしようと、総司の指を夢中でしゃぶりつくす。

「あっ……」

酔いしれるように舐めていた総司の指が突如抜かれ、千鶴は弾かれるように視線でそれを追う。
自分は物欲しそうな顔をしていただろうか?
千鶴の唾液にまみれた総司の親指が月明かりに照らされ、てらてらと光を放ち、千鶴は羞恥と後悔に顔を赤らめ視線を逸らす。

「す、すいませんっ……」

下げた視線の先に淡く光る白い髪は、己が欲望に負けた証だ。
血を欲し、我慢出来ず、だが一口それを口にすればその甘美なる味に酔いしれる。
理性を忘れそれを食せば、お預けを喰らった猫のように物欲しそうに総司を見つめる自分は、獣以外の何物でもないではないか。

(血が欲しい)

一方では僅かに残る理性が獣へと堕ちる自分を否定しつつも、もう一方では血を口にした事で増幅された己の本能が血を求める。
自分の中に存在する矛盾した考えに、千鶴はどうしていいか分からず両の目をぎゅっと瞑ると、知らずそこからは涙が落ちる。

「ごめん、僕のせいだね」

総司はすまなさそうにそう呟くと、折っていた膝を伸ばし立ち上がり、苦悩する千鶴を優しく抱きしめる。

「僕がきみに、無理矢理血を与えたから」

ごめんね、千鶴の耳元で囁く総司の声に、千鶴は反射的に首を横に振ると、涙で濡れる瞳で総司を見上げる。

「違い、ます。私が、血が、欲しかったんです。沖田さんは、悪くない……」

掠れる声で、でもどうしても自分の本心は伝えたくて、千鶴は総司の胸に擦りつける様に数回頭を振って総司の意見を否定する。
血を欲し、人でなくなるのが怖かった。獣と化した自分を総司がどんな目で見つめるのかと想像するのが怖かった。
だからずっと、どうにかして見ない振りをしていたかった。
本当は、もうとっくに手遅れだったと言うのに。

(ああ……)

喉が渇く。一度血で潤った喉は、血を知らぬ時とはまた別の飢えと渇きを千鶴にもたらす。
もう一度、もう二度と、心の奥で、血を求める何かが千鶴に唸る。

「ねえ、僕にもくれないかな?」

懇願するような総司の声に、千鶴は弾かれるように視線を上げる。

「きみの血を」

苦しげに搾り出された総司の髪は、月光に照らされ白銀に光る。

(ああ……)

千鶴は更なる絶望に襲われたようにそっと目を伏せると、だが、手は腰元の小太刀へと伸ばす。
飲血を拒んだ総司に血を分け与えたのも、弱き自分の罪だったのだ。

近藤の為に己が正気を保ちたいという総司の願いを聞き入れず、総司を苦しみから助けたいという己のエゴで迷わず自身の血を差し出した。
自分自身で知ってはいるが、一度血を口にするともう二度と拒むことは出来ず、総司も例外ではなかったのだ。

千鶴は総司が飲みやすいようにゆるりと右に首を傾げると、小太刀を首に当て、さくりとそこに傷を作る。
じわりと血が滲んだかと思うと、総司はすぐさまそこに舌を這わせ、猫のようにぴちゃぴちゃと舐める音が静寂な闇の中に響く。

「……ごめんなさい」

謝罪の言葉は、どこへ向けられたものだろう?

「なにが?このことについて言ってるなら、お門違いもいいとこだよ」

呼吸のついでにそう言うと、総司はまたも首筋へと舌を伸ばす。ねっとりしとしたその感触が、心地よい寒気のような痺れを千鶴に与える。

「血が、苦しみを和らげてくれるのは、きみも知っているよね?」

吐息混じりに問われた言葉に、千鶴は肯定を示すようにこくんと頷く。

「だからこれは、薬みたいなものなんだよ」

薬を飲むのは、悪いことじゃないよね?と囁かれた言葉に、千鶴は涙が溢れそうになり、無言で頷く。

「それにね」

総司は短く言って言葉を切ると、少しこの場にそぐわないような気がしたが、ほんの少しだけ照れたように笑った気がした。

「僕は、きみの血だから、欲しいんだ。きみの血だから、堕ちても構わないと、思うんだ」

苦しげに、でも噛み締めるように総司はそう言うと、常より深く傷をつけたせいか、まだ鮮血溢れる千鶴の首筋にむしゃぶりつくようにして血を啜る。

「あ……ああっ」

自身の身体から血が吸われるなんとも言えない感覚に、千鶴は思わず声を漏らし身を震わせる。不謹慎ではあると思うが、例えようもない快楽が千鶴の身体を走り、それに身を溺れさせてしまいたいとさえ思う。
総司のくれた嬉しすぎる言葉にどうにか自分も気持ちを返したくて、纏まらぬ思考にそれでも千鶴は口を開く。

「私も、沖田さんだから、沖田さんにしか、血を……」

貰いたくも与えたくもないと、そう伝えたかったのだが言葉は上手く口に上らなかった。
だが総司は理解したとでも言うように、ふっと頬に笑みを湛えると、

「……ありがとう」

僕だけじゃ不公平だよね、と器用に左手で千鶴の脇差に手を伸ばすと、先ほどと同じ要領で自身の親指に傷を作り、千鶴の口許へと運ぶ。

「沖田さん……」

甘い香に誘われるように、千鶴は差し出された親指へと口を付ける。
ぺろりと探るように一舐めすれば、酔いしれるような痺れが体中を走る。

(ああ)

口中に広がる総司の甘い血が、まるで麻薬のように意識を狂わせる。

「今後、もし……」

総司の親指に舌を絡めさせながら、千鶴は苦悩と恍惚に歪めた表情で切れ切れと言葉を紡ぐ。

「もし、私が、血に狂うことがあるとしたら」

それは。

ついと唇を離すと、指先からまたすぐに血が滲み始め、千鶴はそれににこりと微笑む。

「沖田さんの、血だからです。沖田さんの……」

湧き出た血液に舌を這わせると、千鶴は恍惚の表情で指をくわえ、口の中で舌で弄ぶように味わいつくす。
歯で甘噛みするように少し押すと、傷口からじわりと鮮血が浮かび上がり、千鶴の口内に甘く広がる。

「……嬉しい事を言ってくれるね」

総司は千鶴の首筋から顔を上げると、上気した頬を紅く染めながら総司の指にしゃぶりつく千鶴の髪を優しく撫でる。

「僕もだよ。僕も、きみの血だから……」

「んっ……」

耳元で囁くように紡がれた言葉と、総司にきつく吸い上げられた首元に、千鶴は瞬間その背を反らせる。

「とっくに狂っているんだ」

搾り出すように囁いた総司の言葉は、血に酔った千鶴の脳裏に鮮明に響く。

(ああ、ああ……っ)

千鶴はその瞬間、自分の何かが崩れ、そして何かが生まれた音を聞く。



狂わせたのは互いの血か、それとも言葉か。
あの日嗤った鬼の顔は、己の微笑みと何か違ったというのだろうか?

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