薄桜鬼小説
斜陽・後編(沖田×千鶴←薫)10.8.22
 紅い煌きは、予想していた華の綻びを開花させる事は無かった。ただ、沖田総司に変若水を与えた時に上乗せして眉間に刻まれた皺が濃くなったのを見ると、ああもうそろそろ頃合だな、と薫は無意識に口角を上げた。
 上機嫌の心根で差し出した猶予期間が待ちきれず、可愛い妹の姿を見る為に姿を現すと、瞬時に気配に気付いた千鶴は少し緊張した様に体を反応させ、疲労に倒れ横に眠る沖田総司に一度視線を移した後、足音を殺して薫の方へと歩み寄った。薫の前を緊張した面持ちを崩さずちらりと視線だけ投げて通り過ぎると、眠る沖田に気付かれない配慮かと思うと面白くは無かったが、薫は文句も言わず千鶴に続き、少し離れた木陰で、可愛い妹と対面した。

「……あの、何しに来たんですか?」

 千鶴は緊張を解く事無く、不信感をそのまま音にした様な声と共に、訝しげな視線を薫へと投げた。実の兄に何をそんなに緊張する事があるのかと薫は胸中で嘆いたが、不幸の等分化を性急にしすぎた事を思えば仕方ないかと、無礼ともとれる態度には今回は目を瞑る事とした。

「何って、可愛い妹の姿を見に来ただけだよ」

 決して嘘ではない言葉を口にすると、千鶴は疑うような視線を崩さぬまま、警戒する様に小さく息を呑んだ音が聞こえた。

「嘘じゃないんだけど、信用ないんだなあ、俺は」

 芝居染みた台詞にわざとらしく悲しむそぶりをしてみせると、根が素直な千鶴が少しだけ罪悪感をその瞳に浮かべた事が薫の気に入った。つけいる、という言葉を使うのは少々不本意ではあるが、沖田総司に絆された心を動かすには、その僅かな心の揺れが非常に重要となり、その片鱗を覗けたと言う事は、事を有利に運ばせる利があるという事だ、と薫は無意識に口端を歪める。

「……本当は、おまえを迎えに来たんだ、千鶴。兄さんと一緒に行こう」

「え?……」

 生きながらえる間に身に付けた演技という術は、どうやら血を分けた妹にも効く様だ、と薫は内心歓喜の笑いを堪えるのに必死だった。ほんの数秒前まで警戒心で完全武装していたくせに、少し弱気な顔をして懇願すれば、これ程簡単にそれを緩めてしまうのかと、初期の攻め方を間違えた事を後悔したが、素直な瞳に浮かぶ動揺の色を隠せないでいる千鶴を見ると、それすらもまた今日のこの日を演出する格好の調味料だったと考えれば、それも許されるか、と薫は悲しげな素振りを続け視線を伏せた。

「おまえが沖田の事を気に入っているのは知ってるよ、千鶴。だから沖田と離れて兄さんと来る事を選べないのも、わかっているんだ」

 そこまで言うと、薫は一旦言葉を切った。薫の真意を測りあぐねて大きな瞳を不安げに煌かせる千鶴に一度視線を合わせると、薫はすぐにまたそれを伏せ、だけど、と消えそうな声で付け加えた。

「沖田は本当にそれを望んでいるのかな?」

「え?」

 闇夜に静かに響いた薫の声音に、千鶴の瞳が驚きに弾かれたのを、薫は伏せた視線から見逃す事は無かった。千鶴の心の奥底に眠る不安の扉を緩やかに開けられた事への喜びに不用意に上がった口角を、隠す様に薫はすぐに口を開く。

「沖田が変若水を飲んだ理由は、別におまえを守る為だけのものじゃなかった事は知ってるよね?千鶴。それなのにおまえまで羅刹になって、沖田の願いを叶える足枷になっていると、邪魔をしていると、そう考えた事はないのかなあ?」

「!!」
 
 先ほどは少し揺らいだだけの瞳が、薫の言葉を引き金とし、その瞬間弾かれる様に大きく見開かれた。どうにか自分でも触れない様にと避けていた部分だったのだろうか、千鶴の心の奥底に潜ませていた一番弱い部分をつけた様で、千鶴はまるで泣くのを我慢している様に、悲痛にその表情を歪めた。

(あともう少しだ)

「おまえが兄さんと一緒に来る事が、沖田の幸せに繋がるんだよ、千鶴」

「!!……」

 面白くは無かったが、沖田総司の名を出してやると、千鶴の動揺はてき面だった。沖田は沖田が沖田の、本当ならその名を口にするのさえ嫌だったが、それでもつい先ほどまで警戒心で武装していた千鶴からは、今ではその覇気がすっかりと消えうせていた。

(……堕ちたな)

 言葉を無くして俯いた千鶴から自分の顔が見えない事を瞬時に悟ると、薫は先ほどは我慢した、心の底から湧き上がる何とも言えない感情にその口角を嬉しそうに歪めた。やはり人を不幸のどん底に落とすには自ら手を汚さなければならなかったのかと、憎むべき相手にその役目を委ねようとしていた自分を反省したちょうどその時。すっかりと生気を失ってしまった千鶴の背後の草むらが、ガサリと揺れた気配がし、薫は素早く視線を走らせる。

「あのさあ、悪いけど、僕のいないところで勝手に僕の幸せなんて語らないでくれる?」

「なにっ?!」

(……沖田っ!!)

 薫が千鶴の肩へと手を伸ばした瞬間、千鶴の背後の闇の中から、薫にとっては今一番聞きたくなかった馴染みのある声が、声の主の姿は見せずに、その音だけを響かせた。

「こんな夜更けに逢引なんて、あれ?千鶴ちゃん、もしかして浮気かな?……でも、その子は趣味が悪いから、やめときなよ」

「お、沖田さんっ?!」

 へらへらとしたいつも通りの笑みを浮かべながら総司は二人の前に姿を現すと、その瞬間のまま固まっていた二人の間に割って入った。総司は自然な仕草で、まるで守る様に千鶴を自分の背後へとそっと押しやると、食えない笑みを浮かべたまま静かに薫と対峙した。正義の味方よろしく現れた総司の態度が気に入らず、その言葉はそっくりそのままおまえに返してやるよ、と薫は胸中で歯噛みし、だが表では鼻で笑ってみせた。挑発する様に送った視線の先のその奥で、あれほど強張った表情を崩す事無かった千鶴が、総司の登場に一瞬の驚きの後すぐに安堵の表情と共に微かな笑みへと変わった事を、月明かりの下薫が見逃すはずもなく、それがとても気に食わず、薫の瞳は静かに憎悪の炎を燃やした。

(ちっ)

「じゃあおまえだったら趣味がいいとでも言うのか?沖田。俺が与えてやった変若水で生き延びている、死にぞこないのくせに」

「沖田さんは死にぞこないなんかじゃありませんっ!!」

 あからさまな嘲笑を浮かべ挑発を仕掛けた相手ではなく、先ほどまでは血の気のない顔で薫と対峙していた、今も現に総司の背に隠されている千鶴が瞬時に反応して声を荒げると、総司はそれに苦笑をして制した。それでも食い下がろうとする千鶴をやんわりと説得する総司の姿に、薫の瞳から今度はすっと感情の色が消える。総司を憎いと思う気持ちが更に胸中にくすぶり、だがそれに反して瞳には氷のような凍てついた冷たさが宿る。

「へえ。じゃあなんだっていうんだ?変若水で出来損ないの羅刹になったそれは」

「っ……」

 薬を飲んだ瞬間の姿でも思い出したのか、はたまた薫が口にした現実に返す言葉無く言葉に詰まってしまった千鶴へと、薫は先ほどまでとは打って変わって冷徹な視線を投げる。千鶴が苦しげに顔を歪めた原因は、変若水という言葉なのか、出来損ないという言葉なのか、それとも、「それ」と人として扱わずに呼んだ言葉なのか、どれにせよ、そこに胸を痛めるということは、その神経が全て総司へと向っているという事を示しており、薫にはそれが面白くなかった。

(ほら。でもおまえだって本当はそう思ってるんだろ?)

 どの言葉に傷ついたのかは知らないが、いずれかの言葉に反応したという事は、意識下にせよ無意識下にせよ、千鶴自身羅刹と人とが別物であると、線を引いている証拠だった。それに心を痛めるのであれば、なぜまだ千鶴は総司と一緒にいるのだろうか?と薫の胸に疑問が上る。本当は羅刹を差別している心に嘘を吐いてまで一緒にいる事が、千鶴に幸福など運んできやしないという事になぜ気づかないのだろうか、と薫は鈍い自分の妹に無意識に唇を噛んだ。

(だから沖田じゃ駄目なんだよ、千鶴)

「いいんだよ、千鶴ちゃん。薫の言う事は、決して間違ってはいないからね」

「でもっ……」

「ありがとう」

「……」

 千鶴はまだ何かを言いたげだという瞳を総司へと向けていたが、総司がまるで聞き分けのない子供をやんわりと諌める様な笑みを返すと、千鶴はその口を薫に向けて開く事を諦めた様に噤んだ。一瞬訪れた静寂に薫がはっと意識を取り戻すと、気遣わしげな笑みを湛えて千鶴を落ち着かせようと肩を撫でる総司の姿が視界に飛び込み、薫は人をも殺せそうな視線をそれに投げる。

「……きみは可哀想だね、薫。僕は変若水を飲んだ子達をずっと可哀想な子だと思ってたけど、僕なんかよりずっと、君の方が可哀想だ」
 
 隠すつもりもなく送った殺気に気づいたのか、薫が視線を送った直後、総司が薫の方へとゆっくりと向き直った。普段通りの妙に薫の神経を逆なでする食えない笑みを湛えていたが、それよりも、その瞳に同情の色がたっぷりと含まれている事の方が薫の神経を更に逆なでた。羅刹という蔑まれるべき存在である目の前の男に、自分がその様な目で見られる理由などあるはずがなく、薫は睨みつける視線に力を込めた。

「誰が可哀想だって?出来損ないの羅刹が、誰に向かってそんな口を聞いてるんだ?」

「ら、羅刹が出来損ないだって言うのなら、私だって、そうですっ」

「っ」

 侮蔑に歪めた口許から紡がれた言葉に返事を返したのは、なぜか今回も千鶴だった。総司を睨みつける視線を少し下方に落とすと、総司の背に隠れながらも薫の鋭い眼光に負けじと強い視線を返す千鶴に、薫は返す言葉を失い息を飲んだ。不安に総司の袖の端を掴んではいるが、それでもその瞳に宿った強い敵対心は、紛れもなく実の兄である薫に向けられているという事実に、薫は無意識に奥歯を噛み締めた。揺らいだ視線が総司を捉えると、まさか忘れていたの?とその瞳が告げている様で、薫は奥歯に更に力を込めた。

(沖田っ……おまえがっ!!おまえのせいで千鶴までっ!!)

 自分の胸に巣食ったどす黒い感情が千鶴に変若水を飲ませるに至ったという事実を都合よく総司へと責任転嫁した薫の瞳が、眼力だけで殺さんと言わんばかりに総司を睨みつけた。目の前の男は、可愛い妹の笑顔を変えてしまっただけでなく、その存在の在り方すらも変えてしまったのだと、薫の脳内で自分の罪が都合よく変換され始めた。
 薫が蔑称として使った羅刹という言葉には、もちろん千鶴は含まれていなかった。例え自分が変若水を飲ませ羅刹へと堕とした事実が今更変えられなかったとしても、それは全て目の前にいる沖田総司の落ち度からくるものだ、と薫の瞳に憎しみが募る。

(おまえがいなければ千鶴が羅刹なんかになることはなかったんだっ!!)

 だが総司は今回もまた薫の挑発に乗る事はなかった。またもへらりとした笑みをその顔に貼り付け、だが更に同情の色を増した瞳が、薫の神経を逆なでた。

「ほら。そういうところが、だよ。何度も言うけど、僕は自分で選んで変若水を飲んだんだ。確かに、それを口にした時の理由は、千鶴ちゃんの為だけのものではなかったけれど、今のこの結果に後悔なんてしていないよ」

 きみは侮蔑の対象でしかないみたいだけど、と付け加えた総司の言葉よりも、変若水を飲んだ理由を語るその台詞に、一体いつから話を聞いていたんだ?と薫は眉根を寄せる。おまけに、今総司が口にした言葉は薫の挑発に対する答えでも千鶴の言葉を援護するものでもなく、その真意を測りあぐね薫は一瞬だけ間をおいてしまった。

「!」

(千鶴はっ?!)

 その為発言のタイミングを逃してしまい、薫が総司の言葉の意味するところに気づき千鶴へと視線を戻した時には、もう時既に遅く、目の前の光景に薫は眉間に寄せた皺を更に深く刻み込んだ。

(ちっ)

 視線の先の千鶴の表情に、総司の思惑が功を成した事を感じ取ると、薫は胸中で盛大な舌打ちをかました。案の定、緩やかに不安へと堕としたはずの千鶴の心は、総司の登場に加え今のその言葉により、先ほどよりも随分と浮上した事が、背中越しに総司を見つめる千鶴の表情で易々と分かった。

(忌々しい)

 薫が煽った不安を取り除く為に告げた総司の言葉一つが、薫の百の言葉よりも効力があると見せ付けられた様で、薫は不機嫌にその表情を歪めた。なぜ実の兄の言葉よりこんな虫けらの言う事に耳を貸すんだ、と薫は座った瞳を総司へと戻す。

「でも、変若水のおかげで僕は生きながらえてるし、この子の事を守る事も出来てる。だから僕は、変若水を飲まずにあそこで死んでいるよりは、ずっと可哀想なんかじゃないんだ」

(……綺麗事をっ!!)

 総司の真意が口に上ったその言葉通りかどうかなんてものは薫にはどうでもよかったが、綺麗事を並べる総司に薫は千鶴に気づかれない様に殺気を飛ばす。もちろん総司は初志貫徹につき、それすら気づかないという風に浮かべた笑みを崩す事がなく、薫は様々な感情から込み上げる笑いに、くっと喉を鳴らした。

「……へえ。そうやって聞くと良い事ばかりにしか聞こえないけど、所詮羅刹は血を飲まずには生きられないんだ。そして後はただ血に堕ちて行くだけだというのに、おまえが可哀想じゃないなんて、意外だよ」

(おまえなんか血に狂って死ねばいいっ!!)

 今なら、別に口に上る言葉と胸に燻る想いが入れ替わって表に出てしまっても構わないなと薫は思った。耐え忍ぶべき環境に身を置いたせいか、感情的になる事が自分の美徳に反するせいか、心の内を隠す事が随分と上手くなってしまったが、今この瞬間は、自分の感情を爆発させたいという欲望に衝動的に駆られた。
 だが、喉元まで出かかったその言葉が、総司の後ろに隠れ見えた千鶴の姿の前に音にならずに消えてしまった事が、更に薫の機嫌を損ねた。

(なんで、今更っ……)

 認めたくない事ではあったが、今夜の結果はもう見えていた。沖田総司の登場により、千鶴をこの場から連れ去る事は叶わなくなったのだと、さすがに薫でさえ分かっていた。それならば、目の前の憎い男を呪う言葉を思う存分吐き掛けてやりたいと体中が叫んでいるというのに、今更千鶴の瞳の前に戸惑った自分に薫は小さく舌打ちをした。

「……まあ、そうならない道を探しにここまで来たんだけど、まあいいや。でも仮に、僕が血に狂ったとしても、僕は後悔はしないよ。この子を守るって事が最後まで出来なくなってしまったらそれは悔いる事になるだろうけど、それでも、この子の血で狂って死ぬなら、それは本望だよ」

 総司は静かにそう告げると、一度そこで言葉を切った。何を綺麗事を、と薫の胸中にどす黒い声が唸ったが、一方で、薫を見つめる総司のとっくに何かを決意した様な真っ直ぐな瞳が気に入らず、薫は無言のまま対峙した。

「……それに、もしこの子が僕の血に狂ったとしても、僕は迷わず一緒に堕ちるよ。もちろん後悔なんてしない」

「沖田さん……!!」

「っ」

(忌々しい)

 まるで愛の告白ともとれる総司の言葉は、だが全て薫に向けて発せられていた。総司の背中で、場違いとも思われる感動にも似た感情に瞳を潤ませた千鶴には視線をやらず、薫は総司を真正面から睨みつけた姿勢のまま動かなかった。返す言葉に詰まった薫を見て、総司の瞳がまた、ほら君のそういうところが可哀想なんだ、と告げた様な気がして薫は唇を噛んだ。初めて会った時から、あの、全てを見通しています、という目つきが気にいらなかったのだ。

(なんだよ。俺の方が足りてないとでも言いいたいのか?)

 千鶴を想う気持ちが。

「……私は、私が想う気持ちが沖田さんを羅刹にしてしまった事が悲しかった。おまけに、私も羅刹になってしまって迷惑ばかりかけてるけど……でも、それでも、沖田さんがそうやって言ってくれるから……ううん、沖田さんと一緒にいられるから、可哀想なんかじゃないよ」

 総司の言葉に勇気付けられたのか、今までずっと総司の背に隠れていた千鶴が一歩前へ出、本日初めて薫と真正面から向き合いその胸中を吐露し始めたが、そんな事は今の薫にはもうどうでもよかった。耳をすり抜ける千鶴の声は、薫の思い出の中の妹からは絶対に発せられないものだと、薫は込められる全ての憎悪を瞳に乗せ総司を睨む。

(おまえのせいで変わってしまったんだ)

 ギリ、と音がするほど薫は無意識に奥歯を噛み締めた。
 薫の可愛い妹は、どこの馬の骨とも分からない男の背に隠れ兄を非難する様な目で見る事などするはずがなかった。気高き鬼の血を継ぎ、頂点に君臨すべき存在であったはずのその存在は、羅刹に堕ちてなお幸せだなどと言い放てるほどそのプライドは低くないはずだった。

(これじゃあまるで、まるでっ……!!)

「人でもない、鬼でもない、ただの出来損ないの羅刹になる事が、幸せだとでも言うのか?」

 はっ、と薫は乗せられる全ての感情を乗せ嘲笑してみせた。

(そんな事があるはずはないっ)

 薫にはそれを肯定する事は出来なかった。最高の力を誇る鬼でさえ、子を産む能力がないと分かれば蔑まれて生きてきた。無力であると鬼の身からは軽視される存在であったとしても、現権力を握っているのは人間だった。そのどちらにも成りきれない、不完全な存在である羅刹なんかに、幸せを掴む事が出来るはずはないのだ。

「……結果論だよ。羅刹になる事が幸せな事ではないけれど、羅刹になったからこそ、掴めた幸せがあるんだ」

 今までへらへらとしていた総司の顔から、その笑みが消えた。真剣な眼差しで告げた総司の言葉を薫は無表情で受け止めると、数秒の間そのままの姿勢で対峙した。互いに無言のままのその状態は端から見たら睨み合いの様に見えたのか、千鶴が総司の袖を心配気にきゅっと握り締めたのが、薫の視界の端に映った。

(……)

 ゆらりと、薫の瞳が宙を泳いだ。

「……くだらない茶番を見せられて気が逸れたよ。千鶴、次に会う時は、兄さんが正しかったと、おまえもきっとわかるはずだ」

 薫は数秒の間だけ千鶴に視線を合わせそう言うと、総司には見向きもせずにくるりと踵を返した。背後で千鶴が何かを言いたげに息を飲む音が聞こえたが、薫はそれに振り向くほどの興味をそこに払う事はなかった。

(忌々しい)

 本来、出来損ないの羅刹など蔑まされるべき存在であり、そこには絶望や嘆きしかなく、ましてや鬼である自分を憐れみと同情を浮かべた瞳で見つめる様な、そんな存在には成り得ないはずだった。助けて欲しいと、絶望に打ちひしがれた瞳で懇願され、そうすればまた昔の様に妹の事を無条件に愛せると、そう信じ願って止まなかったというのに。

(俺が変わってしまったとでも言いたいのか?)

 薫の脳内には、いつでも幼い頃の思い出の中の妹が生きていた。薫の手を握り、嬉しそうに笑う、そんな無邪気な幼子だった。その幼子は、決して男を相手にはにかむ様な笑みを浮かべたり、ましてや羅刹になり生き延びる様な、そんなものではなかった。
 だが実際に成長した千鶴は、薫の妹があるべき姿を成さないままで存在している。羅刹などという存在に身を堕とした妹を受け入れられないでいる自分は、沖田総司よりも劣っているという結論に辿り着きそうになり、薫はすぐにその考えを打ち消した。

(……)

 理解に苦しみ薫は大きな溜息を一つ零すと、苛立たしげに振った薫の手に布越しに何かが触れた感触がし、薫はポケットに手を入れてその感触の正体を取り出した。

「……」

 見るとそれは、先ほど出会った二人を羅刹へと堕とした、変若水の入ったあの小瓶だった。

「はっ」

 視界に広がる紅い揺らめきに、気がつくと、いつだって答えは手中の紅い水の中にある様な気がして、薫は自嘲気味に笑った。

(そうか。足りなかったのか)

 薫は変若水の入れ物を見、全てを理解した様な気がして上げていた口角を少し和らげた。
 不幸はいつだって等分にされるべきだと、千鶴との不幸の当分化を急ぎすぎたあまり、どうやら自分の分が少し足りなくなってしまっていたらしい、と薫は胸中で可愛い妹に謝罪を述べる。

(だからおまえの事を解ってやる事が出来なかったんだね、千鶴)

 だから千鶴の笑顔が変わった事も、羅刹になってしまった事も許す事が出来なかったのかと、薫は自分の中で燻っていた疑問に回答を得た気になり、また上機嫌にその笑みを深めた。

(俺が沖田にその機会を先に与えてやったから、俺より沖田の方が千鶴を理解出来ている様に映っているんだ。ただそれだけなんだよ、千鶴)

 薫が変若水の瓶を目線の高さまで掲げると、月明かりを浴びて、その紅が怪しく光る。

(兄さんもすぐ、同じになってやるからね)

 幸も不幸も半分ずつ。そう決めたのは自分だったというのに。
 薫は満面の笑みを浮かべると、躊躇いもなく瓶の中の赤い水を一息に呷った。

「……」

 つうっと、一筋の紅が、薫の口許に筋を残した。ゴクリと、わざとその感触を確かめるように喉を鳴らして飲み込むと、薫の頭髪が月明かりを受け、銀色に輝きを放った。

「……く、くくくっ、は、あはははははははははっっ」

(ほら、これで兄さんも一緒だ。これからは、おまえの事を全部解ってやれるよ)

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