薄桜鬼小説
金平糖(沖田×千鶴)09.10.06
 口の中で蕩けて消える、それは金平糖よりも-


 朝食の膳を下げて戻ってくると、先ほどまで茶の間に座っていた総司の姿が見当たらず、千鶴はキョロキョロと辺りへと視線を巡らせた。
すぐに姿を発見して、あ、と千鶴の口が形作るのとほぼ同時に、庭先に立っていた総司がおいでおいでと手招きをしたので、千鶴は草履を引っかけて小走りに総司に走り寄る。

「千鶴ちゃん」

優しい声で千鶴の名を呼ぶと、総司は両手を広げて走り来る千鶴を受け止めた。
正確に言うと、総司自ら受け止めに行った、が正しく、予期せぬ総司の行動に、千鶴は勢い余って思いきり総司の胸に飛び込むような形となった。

「わっ!」

とん、と決して厚くはない総司の胸に千鶴が体当たりするように顔を埋めると、総司の両腕がふわりとその体を抱きすくめる。
腕に込められた力はさほど強いものではなく、逆に壊れ物でも扱うかのように柔らかく回されたそれは、だがその強さに反比例するように、まるで逃がしはしないと言っているかのようで、千鶴はどうにか顔を上げ総司の顔を覗き込んだ。

「あの、総司さん?」

「千鶴ちゃん」

どうしたんですか?と問おうと開きかけた口は、見上げた先の総司の柔らかい笑みの前に思わず言葉を失った。辛い事が多かったせいか、こんなに安らかな笑みを前にすると、言葉を発するより前に、釣られて千鶴の頬も緩む。

「……」

うっかり流されてしまいそうになり、千鶴は、ああいけない、となぜこんなにも近くにいるのに名前を呼ぶのだろうか?という当初の疑問を思い出し、そう問いかけようとしたところ、

「千鶴」

と、今度は落ち着いた声音で総司がまた千鶴の名を口にしたものだから、千鶴はまたもその口を噤むはめとなった。

(何かあったのかな?)

「どうかしたんですか?」

放っておいたらまた腕の中に閉じ込められてしまいそうだったので、千鶴はなんとか自分の腕を総司との間に割り込ませて空間を作ると、心配げな顔で総司を見上げた。
声音と表情はとても穏やかではあるが、普段とは違う総司の行動が、ほんの少しではあるが千鶴の胸に不安を灯す。

「別に何もないけど。どうして?」

自分と千鶴の間に出来た隙間に総司はきょとんとした表情をしてみせると、その空間を埋めるようにまたすぐ千鶴を抱き寄せた。
何もないのならどうして急にこんな、という疑問が中々頭から離れずに、千鶴はふるふると頭を振る。

「だって、じゃあどうして私の名前を何度も呼んだんですか?」

「何度も呼んだらいけないの?」

また押し戻された総司の胸から、千鶴は苦しそうに顔だけ出すと、穏やかな表情で微笑みかける総司と目が合い、不安を感じていたはずの千鶴の心臓が、不謹慎にもどくんと跳ねた。
総司の言う通り、別に自分の名を何回も呼んで悪い訳ではないが、その後用件が続く訳でもなくまた名を繰り返されると、まるで何かを誤魔化す為に呼んでいるような気がして、心の奥がほんの少しざわつくのだ。

(や、やっぱりなんだかおかしいような)

普段から総司の行動はまるで猫の様に気まぐれで読めるものではなかったが、今日に限っては特に訳がわからなく千鶴を混乱させる。屯所にいる頃から名前で呼ばれる事には慣れているが、こうも立て続けに呼ばれた例は無く、おまけに総司が自分の名をとても愛おしそうに呼ぶものだから、それも調子を狂わせる。

(本当は心配しなきゃいけないのに)

普段と様子が違う総司が心配なのは確かだが、あまりにも優しい呼び声に、先ほどから耳が熱くなりすぎて痛いのもまた事実だ。その上総司の腕の中の居心地の良さも相まって、考える事を止めてこのまま総司に身を任せてしまいたくもなるから本当に困ったものだ。

「!!」

千鶴の葛藤など構う事無く、総司はまた自分と千鶴の隙間を埋める様に、千鶴の頭を両腕で抱え込むように抱きしめた。おまけに千鶴を包み込むように総司が体重をかけるものだから、先ほどより密着度が増し、目の前は総司一色だ。

「千鶴」

(!!!!!)

耳元に寄せられた唇から、総司の声がもう一度とても大事そうに千鶴の名を呼んだ。耳に触れた微かな吐息や、その声音が、千鶴の鼓動をこれでもかというほど早鐘を打たせ、堪らなくなり千鶴はぎゅっと瞳を閉じた。
もし総司が何か悩んでいるのであればそれを共に分かち合いたいと思う反面、そこから与えられる熱に素直に反応してしまう身体に千鶴は正直戸惑いながら、どうしたらいいのだろうと、気の散る頭で考えを巡らせる。

(今日の総司さん、本当にどうしたんだろう……あ、もしかしてっ)

「そ、総司さんっ!!」

早すぎる自分の心臓の音が薄い着物越しに総司に伝わってしまうのではないかという焦る千鶴の心配を余所に、その少し裏返ってしまった千鶴の声に反応し、総司はまるで流れる時間が違うような、のんびりしとした視線を千鶴へと落とした。

「ん?どうしたの?」

まるで砂糖菓子の様な、今にも蕩けそうな笑顔で返され、千鶴は自分の体中の血が一瞬で沸いたのを感じた。だが、また雰囲気に飲み込まれそうになった自分を制するように千鶴は一度大きく深呼吸をすると、総司の瞳をじっと見返した。

「あ、あのっ、もしかして、怖い夢でも見ましたか?」

もう一度総司の腕の中から抜け出して、意を決して告げた千鶴の言葉に、まるでその瞬間時間が止まってしまったかの様に、総司は見上げる千鶴をぽかんと口を開けて、大きな猫目を丸くした。

(あれ?)

千鶴にしてみれば、以前のように何かに追われる事も何かに立ち向かう事も無くなった今、総司の病気を除けば、総司を不安にさせる原因はこのくらいしか思いつきはしなかったのだが、この反応を見るとどうやらそれははずれだったようで、あれ?と小首を傾げる。そうなると浮上してくるのが、病気が進行していたらどうしよう、という一番考えたくない不安が頭を過ぎったが、それにしては総司の声音に悲観的なところは微塵も感じられず、だからこそ辿り着いたこの子供じみた理由以外頭に浮かんでくる事もなく、頭の中には更なる疑問符が増えるばかりだ。

「……ははっ」

「……どうして笑うんですかっ?!」

思わず漏れた総司の笑い声に千鶴は意識を引き戻されると、人の心配も知らず笑い出した総司の気の利かなさに、心配してるんですよ、と思わず真剣な言葉が口をついた。だが総司はその真摯な視線に堪えきれなくなったのか、顔面が引き攣るほど堪えていた笑いが、千鶴のその言葉をきっかけに、ついに噴出し破顔した。

「ごめんごめん。あまりにもきみが可愛くてさ」

やっぱり可愛いなあ、と総司は表情を崩すと、千鶴はその言葉に一瞬息をするのも忘れて頬を染めたが、それでも自分の心配を笑った事を反論すべく、小さな拳を総司の胸にとんと当てた。

「総司さんの様子が変だから、心配してるんですよっ?!」

「だからって、それが怖い夢を見たのかって繋がるのが千鶴ちゃんらしいよね」

どうやら自分の心配は稀有に終わったようで、千鶴はその事に安堵しながらも頬をぷくっと膨らませて抗議すると、総司は本日大安売り中の極上の笑顔をまた千鶴に向けた。

「だって……それ以外思いつかなくて」

千鶴が恥ずかしげに顔を赤らめて俯くと、そういうところがまた可愛いんだよね、と総司は俯いた事で現れた千鶴の旋毛に自分の頬を摺り寄せた。

「あのね、僕は嬉しいんだよ。きみの名前をこんなに近くで呼べる事が」

(え……?)

総司の胸に顔を埋めたまま、千鶴はぱちりと一度瞬いた。旋毛に口を付けたまま告げられた言葉に、その熱い息が頭皮を伝わって、千鶴の胸の奥すら暖める。

「僕が、きみの名前を一番近くで呼べる存在でいられる事が、嬉しいんだ」

だからそれを確かめたくてきみの名前を何度も呼んだんだ、と総司は少しだけ恥ずかしそうに千鶴の耳元で付け加えた。

(!!)

「あ、あのっ、じゃあ、それで今日私の名前をっ……」

「……今、僕そう言ったんだけど」

それにしてもそんなに僕の腕の中は嫌なの?と、総司はもう本日何度目か分からぬほど総司の腕をすり抜けて顔を出した千鶴に苦笑した。

「えっ、あの、ちがっ」

「冗談。だって、きみの顔さっきからずっと真っ赤だしね」

「!!……もうっ、からかわないでくださいっ」

あはは、とくったくなく笑う総司に、千鶴はもう一度頬を膨らませて抗議すると、すぐにその頬を緩めて微笑んだ。そして自分と総司の間に置いていた腕をゆるりと総司の背に回すと、今度は自分から総司の胸に顔を摺り寄せるように、優しく総司の身体を抱きしめた。

「……私も、です。私も、総司さんの一番近くで名前を呼べる事が、嬉しいです」

総司に言われて初めて気づいたが、もう今では当たり前になってしまっていたそれが、本当は数え切れないほどの奇跡の上に成り立っているのだという事を改めて知らされたようで、千鶴は自分が勝ち取った現実に感謝する事を忘れていた事を思い出した。

「それに、総司さんがそう思ってくださる事が、嬉しいです」

自分の名を呼べる事が幸せだと、自分の一番大切な相手に思ってもらえる事以上に幸せな事があるのだろうか?

「……きみと僕との意味合いは少し違うんだけど、まあいいや」

「?」

少し困ったように総司はそう言って笑うと、千鶴、ともう一度その名を呼んだ。

「総司さん」

答えるように千鶴がそう名を呼ぶと、今までで一番嬉しそうに、千鶴、と総司がまたその名を口にして、回した腕にぎゅっと力を込めて抱きしめた。

(……蕩けてしまいそう)

耳に響く総司の声は何よりも甘く、総司から移り来る熱はまるで自分を溶かしてしまいそうだ、と千鶴はその熱を帯びて上気する頬を喜びながら、自分もそうなれればいいのに、と触れ合う場所から融け合える事を願いながら、回した腕にぎゅっと力を込めた。


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あきゅろす。
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