薄桜鬼小説
馨香(斎藤×千鶴)08.10.21
鼻腔をくすぐる甘美な香は、羅刹へと身を堕とした己が欲する血の臭いか、それとも−
変若水。この言葉を初めて耳にしたのはいつだっただろうか?
斉藤一は、書類に走らせる筆をほんの数秒休め、無意識に眉根を寄せる。
驚異的な力を手に入れる代償として精神を狂わせるという鬼の所業のような代物の存在を聞かされた時、極僅かではあったが、人道から外れるその薬に人並みに嫌悪を感じたのを覚えている。
だが、直後に告げられた彼等の有意性と、局長副長からの、これは幕府命令の決定事項だという言葉に、その嫌悪も疑問もすぐに自分の中の奥底へと葬り去られた。
頭の何処かで、何はともあれ他人事だと考えていた当時、まさか自分があちら側へ堕ちる事になるだなどと、想像すらしていなかった。
「!」
一はその瞬間、背筋に、つうっと一筋の汗が流れ落ちたような感じがし、手にした筆を静かに置いた。
嫌な予感しかせず、無意識に己の心臓の辺りの衣服を、掻き集める様にぎゅっと握り締める。額には、どうにか己を保とうとするせいか、じんわりと油汗が浮かび上がる。
(……慣れたく無いものだな、こんな感覚には)
己の信じる物を捨てぬ為変若水に手を出したあの晩より、幾度となく苦しめられる感覚に、一は苦痛に満ちた表情で顔を歪める。
羅刹の身にならねば知る事の無かったそれは、まさに己が人外であるとその都度言い聞かされるようで、正直良い気はしない。
「斉藤さんっ!!」
静かに開けられた障子と、自分の名を呼び青い顔で飛び込んでくる千鶴に、一は瞬時に視線を走らせる。
失礼します、と小さく告げた声に、この部屋に入るのを制するべきだった自分の言葉は発する事さえも許さぬとばかりに喉の奥に消え、それも自分の意志で叶わぬのか、と自嘲気味に笑おうとした一に、それすらも許さぬと言うように第二陣とでも言うべき発作がその身を襲う。
「大丈夫ですかっ?!」
ふっと意識が飛んでしまう前に、耳元に響く千鶴の声に、安心させようと視線だけ送り笑ってみせたのは、伝わっただろうか?
揺れる視界の端にはいつもと同じ心配気な千鶴の顔が映り、ああそれすらも許されぬのか、と一は苦渋に顔を歪め瞼を閉じる。
「がっ……ぐっ……ああ……っ!!」
「斉藤さんっ!!」
駆け寄った千鶴に力なく身を任せるしかなく、千鶴に体重を預けるように倒れこんだ一の背に回された千鶴の腕に、ぎゅっと力が込められたところをみると、ああまた羅刹に変わってしまったのか、とか細い腕の中で一は冷静に状況を把握する。
白い髪に紅く光る瞳。
一度だけ見た、硝子に映る自分の羅刹姿を思い出し、一は、あの異形の姿は目の前の彼女を怖がらせてはいないだろうか?と、ぼんやりとした思考の端に思う。
「私の血を、飲んでください」
ふと、支えを無くした自身の体と千鶴の声に意識を取り戻すと、もう何度目になるのか覚えてはいなかったが、真剣な眼差しと共に千鶴が自分の小太刀を差し出していた。
人の血を喰らえば発作が治まるだなど、本当に己が人では無くなった証拠だなと、もうとうに慣れてしまった仕草で、一は千鶴の小太刀を受け取る。
拒絶せぬのは己のエゴか彼女の献身に対する敬意か。見える答えを見ぬようにして、一は瞼を落とし嘆息する。
「すまない」
「いいんです」
何度口に謝罪の言葉を並べても、吸血行為を止めようとしない己の卑怯さは如何ほどの物か、と眼前で優しく微笑む千鶴に一は罪悪感に視線を背ける。
なるべく何も考えないようにと素早く小太刀を鞘から抜くと、千鶴の耳朶に静かに当てる。
さくり。なるべく千鶴に痛みを与えないようにと小さな傷を作る様心がけてはいるが、己の右手の下で千鶴がびくりと体を反応させたところを見ると、やはりどんなに小さな傷でも痛みを伴うことに、一は申し訳なさから眉間に皺を寄せる。
「……」
千鶴の白い耳朶に、じわりと赤い小さな水溜りが出来る。
鬼の身であるが故すぐ塞がる傷口に、傷跡も残らぬと知った時は、この背徳的な行為の中にも多少救われた気がしたものだった。
くらり。血を見た瞬間、眩暈にも似た感覚が一を襲う。
己の中の鬼が欲するのだろうか、目の前の血液に、堪らず一は口をつける。
「んっ……」
一が千鶴の柔らかな耳朶を口に含むと、いつも決まって千鶴はそう小さく声を漏らす。
何度と回数を重ねようが、こんなことに慣れぬのは当たり前か、と一はその声を聞く度自分の不甲斐無さに顔をしかめる。
「……」
千鶴の耳朶を口に含んだまま、一は残りの血液を求め耳朶の表へ裏へと舌を這わせる。
瞬時に傷を治す千鶴の体は、傷を残さぬという点では己の罪悪感を軽減してくれるが、傷口を舌で割り血を貪る事が出来ないというのは非常に残念な事だ、とどこかでもう一人の自分が口惜しそうに呟く。
「!!」
少しだけ唇を離し、微かに吐息を漏らすと、千鶴の体がびくりと大きく反応した。
「すまない」
反射的に謝罪の言葉を口にすると、千鶴の血を口にした事で通常体に姿を戻した一は、いつものようにそう告げて体を離そうとしたが、ほんのりと赤く染まる千鶴の首筋を視界の端に留め、離れかけた頭をぴたりと止める。
どくん、と一つ跳ねたのは、添えた右手下の千鶴の脈か、己の心臓か。
一は耳朶に這わせた舌を、そのまま、つうっと千鶴の首筋に沿わせて下へとおろす。
「さっ、斉藤さんっ?!」
驚いたのか、少し上擦った声で千鶴が自分の名前を呼んでいたが、一はあえて無視を決め込んだ。身じろぐ千鶴にまるで気づいていないような素振りで一は背中に回した左腕でその動きを封じると、這わせた舌を今度は上へと押し進める。
「あの、もし血がたれたのなら、私、自分で始末しますからっ」
「……いい。俺がやる」
焦るような声音ではあるが、やはり相変わらず見当違いな心配をする千鶴をよそに、一は這わせた舌の跡をなぞるように今度は唇でそれを啄む。
「斉藤、さん?」
千鶴の首筋に添えた手の下で、脈が乱れるように波打つ様子を見ると、どうやら千鶴自身も、これが羅刹の発作による吸血行為ではないと気づいたようだ。
(だが、遅い)
どう対処してよいものかと判断の付かぬ千鶴の腕が、回された一の背中でせわしなく動く様子が可愛らしく、一は思わず顔に笑みを浮かべる。
「あ、あのっ、斉藤さん?」
漏らした吐息で一が笑っているのを気配で感じとったのか、千鶴が様子を伺うように一の名を口にする。
「嫌か?」
返る答えを分かりつつもそう尋ねる自分はなんと卑怯な事か、と自嘲しつつ、一は自分の鼻面を千鶴の耳裏へと押し込める。
「あ、あのっ、そのっ……」
ひやりとした感触に千鶴はまた身を震わせたが、観念したのか所在なさげに宙を掴んでいたその腕は、少しした後やんわりと一の背へと優しく回される。
「……い、嫌じゃ、ない、です」
蚊の消え入りそうな声で千鶴はそうとだけ言うと、熱い吐息を一つ漏らし、その頭を一の右肩に静かに預けた。
「そうか」
肯定の言葉が自分が予想していたより嬉しかったのか、一は小さく笑みを零すと、もうとうに傷口の塞がった、血の味もしない耳朶をまたその口にそっと含んだ。
鼻腔をくすぐる甘美な香は、羅刹へと身を堕とした己が欲する血の臭いか、それとも-
とうにその身は人である事を捨てた体にくすぶっていた恋情に火をつけた、鬼をも狂わす彼女の色香か。
一はその正体を確かめるように、もう一度千鶴の首筋にゆっくりと顔を埋めた。
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