薄桜鬼小説
鬼の棲家(沖田×千鶴)08.10.19
自分が『鬼』であると、人外の者であると、初めて聞かされたあの日、あの時の自分がどう感じたかだなんて、今はもう思い出せない。
千鶴の視線の先で、沖田の柔らかな猫っ毛が、羅刹となった証である白銀から通常の色を取り戻すと、千鶴は気づかれぬように、ほっと小さく息を漏らす。
まるで何かの儀式のような、もう何度目になるかわからない言わば吸血行為が終わると、沖田は千鶴の掌からのろりと頭をあげながら、
「……ごめん」
と、力なくいつもと同じ申し訳無さそうな笑みを浮かべゆっくりと立ち上がる。
「……」
その切なげに響く言葉は何度聞いても慣れる事なく、その度に千鶴の胸に言い様のない思いが押し寄せ、返す言葉もなく千鶴は左右に小さく首を振った。その姿を目に留めると、沖田は普段通りの柔らかな笑みを浮かべ、安心させるようにか千鶴の頭を優しく撫でる。
「そんな顔しないの、千鶴ちゃん。あのね、君の血はとても甘いんだよ」
まあ、他と比べた事はないけどね、と、浮かぬ顔の千鶴を気遣って沖田が冗談めいた口調で言った言葉に、千鶴は力なく笑って見せると、沖田も安心したように小さく頷いた。
その脈絡のない言葉が特にフォローの意を含んでいない事に本人が気づいているかどうかはわからなかったが、千鶴が落ち込まぬようにと気遣い掛けてくれた言葉は単純に嬉しく思い、その好意に頬を緩ませた。
「君が責任を感じる事はないんだよ。君の血は、確実に僕の苦しみを抑えてくれる。これは、僕が望んだ事なんだよ」
「沖田さん……」
だから気にしないで、そう優しく囁きながら、もう一度千鶴の頭を撫でる沖田の視線を直視できず、千鶴は自分の本心を悟られまいとそっと視線を落とした。
(違うのに……)
千鶴は自分の中に蠢くどす黒い感情から逃れるように、きゅっと目を瞑り薄い唇を噛み締める。
初めて羅刹の発作が起こった時、自分達には複数の選択肢が用意されていた。
一つ目は、現在も継続されている『鬼』である自分の血を与える事。
二つめは、薫に効果の持続性は低いと聞かされても父親を信じ薬を飲ませる事。
三つ目は、狂いたくないと願う沖田の意志を尊重して我慢させる事。
(本当は、どれを選べばよかったんだろう……)
少なくとも、自分達が選んだ選択肢でなかった事だけは今の千鶴には分かる。血を与える行為を選んでしまったおかげで、あの時には三つあった選択肢は、今ではたった一つしか残っておらず、選択の余地は無くなってしまった。
(でもあの時……)
苦しむ沖田の姿を見ているのが耐えられなくて、どうにか早くそれを取り除いてやりたいと望んだ自分に冷静な判断力などあるはずもなく、気づいたら小太刀を自分の手首に当てていた。一番安易な方法に縋ってしまったのは言い訳も出来ないところだが、沖田の苦しみが和らいで、単純に嬉しかったのだ。
自分の『鬼』の血が、沖田の役に立てた事が、嬉しかったのだ。
「千鶴ちゃん?」
急に自分の名を呼ばれ千鶴は、はっとして視線を上げると、黙りこくってしまった自分を心配げに覗き込む沖田と目が合い、思わず目を瞬かせる。
「はいっ」
思いがけず出た素っ頓狂な声音に沖田は一瞬目を丸くした後苦笑すると、
「疲れた?もう休みなよ」
と、千鶴の頭に置いた手を、子供をあやす様にぽんぽんと弾ませた。
「……はい、そうします」
沖田の言葉に素直に頷くと、千鶴は沖田から視線を外し一礼すると、そそくさと沖田の前を通り過ぎる。もう一度視線を合わせたら、瞳の奥から自分の考えを覗き込まれそうな気がして怖かったのだ。
「一人で寝るのが怖かったら、いつでも呼んでいいからね」
千鶴が障子に手を掛けその半身を沖田の部屋の敷居をくぐらせた時、からかうような口調で言った沖田の言葉に千鶴は顔を赤らめると、
「呼びませんっ!!」
と大声で振り返り、障子の隙間で笑いながらひらひらと手を振る沖田の姿を、ぴしゃりと閉めて遮断した。
「ほんとにもうっ」
冗談とわかりつつも、千鶴は素直に反応して熱を持った自分の頬を両手でパチパチと叩きながら自室へと向かい廊下を歩く。
(でも……)
何度目か頬を叩いたところで、千鶴はその手を止めだらりと力なく落とした。
沖田の冗談めいた言葉は、いつでも千鶴を元気付ける為に投げられる。本当ならば辛く苦しいのは沖田のはずなのに、その姿を千鶴に見せることはなく、いつもしょ気るのは自分の方で、慰められるのも自分の方でと、正直とても情けなく思う。
(でも、だから……)
自分の血が沖田の苦しみを和らげる事が出来た時は、本当に嬉しかったのだ。新選組の仲間といた時も、常に足手まといで何も出来なかった自分が、唯一本当に役に立てていると実感できて、とても嬉しかったのだ。
それは初めて自分の『鬼』の血を喜んだ瞬間であったし、『鬼』の血が苦しみを和らげるというのが薫の嘘であると落胆した後も、それでも自分の血で苦しみから解放される沖田を見ると、嬉しくて堪らなかった。
(それだけだったのに……)
千鶴は薄暗い廊下の真ん中で立ち止まると、きゅっと唇を引き結ぶ。
(どこで狂っちゃったんだろう……)
千鶴の心の奥底で、どろりと、何かが蠢いた。
最初は本当に、沖田の役に立てて嬉しい、それだけだった。
それなのに。
次第に自分の中で、その考えが音も立てずに何かに取って代わられていた。
苦しい中でも純粋であった沖田への思いは、次第にどす黒い闇に飲み込まれてしまったかのようだった。
今思えば、いつしか沖田が口にした、
『僕はもう、君の血しか飲まない』
その言葉を聞いた瞬間から、自分の中で何かが狂い始めていたのかもしれない。
千鶴の血を舐めながらそう告げる沖田の言葉が、まるで何かの契約のように千鶴の中に深く刻み込まれた。
目の前にいるのは、変若水によって創られた、人にあらざる羅刹の沖田。
一度血を口にした羅刹は、最早止める事も出来ずに血を求め堕ちて行くのみという。
それなのに、人の血無しには生きて行けぬ存在と成り果てたはずの沖田は、事もあろうか千鶴の血以外受け入れぬと自らに誓いを立てた。
「……」
千鶴は、無意識に自分の右手首を撫でる。
つい先ほど小太刀で傷を作ったばかりだというのに、もうその傷口は線すら残っておらず、どこを切りつけたかさえもわからない。
「便利なものね」
自嘲気味に笑ってはみたものの、傷をつけてもすぐに癒える鬼の体は、実情とても便利なものであった。
千鶴は、沖田が発作を起こすとすぐに自分の手首に傷を作り沖田に血を与えていた。通常であればその傷口からは暫くの間は血が流れ続け、その傷口は沖田の心を別の意味で苦しめたかもしれないが、千鶴の体はその傷跡さえも残さなかった。
『大丈夫』
血を飲み終えた沖田の苦渋に満ちた顔が、そう言って自分の手首を見せながら言った千鶴の言葉に、いくらかの安堵に和らいだ気がして、それが千鶴の中に無意識な独占欲を芽生えさせたのだ。
(血を飲まなければ)
狂ってしまう。
(血を与えれば)
その身朽ちるまで欲っし続ける。
(私の血だけを)
飲むと誓った沖田総司。
それならば。
自分の血を与え続け、自分がいなければ生きて行けないようにしてしまえばいい。
幸いな事に、自分は傷を負っても瞬時に治す『鬼』の体だ。
いつどこでどう歪んでしまったのか分からなかったが、自分の恋心は、確実におかしな方向へと進み始めていた。
一方ではそんなおぞましい考えに嫌悪を抱く自分に対しても、
それに決して罪悪感を持つことはない、沖田はもう血を喰らわずには生きて行けない存在なのだから。自分がしている事は人助けなのだ。沖田の役にたっているのだ、と間違った方向に自分を説得し続けた。
「……」
はっと我に返ると、今自分が考えていた事に身震いして千鶴は自分の体をそっと抱きしめた。
(今、何を考えていたの?!)
狂った考えにぞっとして、千鶴はこめかみにつうっと冷や汗が垂れるのを感じる。
己の思考でありながらも、その人離れした考え方にぞっとした。
そしてまた、
今自分でも身震いした考えを実行している自分にも、心の底からぞっとする。
「!!」
千鶴は背後の闇に何かの気配を感じたような気がして、止めていた足を慌てて動かすと、小走りに廊下を自分の部屋へと急ぐ。
(こんなはずじゃなかったのに)
最初は、ただ役立てたことが嬉しかったのに。
パタパタと走る千鶴の足音が暗闇に響く。
(いつからだろう?)
自分の血がある限り沖田が自分の傍を離れることはない、と錯覚してしまったのは。
仮住まいの為大きな屋敷ではないはずなのに、今夜に限ってなぜかその距離がひどく長く感じられる。
(どうしてだろう?)
その為に必要以上に沖田に自分の血を与えてしまったのは。
暗闇の先に、ついに自分の部屋の障子を見つけると、千鶴は縋る様にそれに手を掛け、後ろを振り返らないように急いでそれを閉める。
額にじんわりと浮かんだ汗を右手の甲で拭うと、それが微かに震えている事に気づく。
(こんなはずじゃなかったのに)
沖田に血を求められると、まるで自分を求められているかのようで嬉しかった。
血を求め跪く沖田の旋毛を見ていると、彼が自分だけの物であると実感できて嬉しかった。
「……」
まるでこれでは血の呪縛だ。
千鶴は小さく呟くと、闇に自分の身を隠すように、そっと両手で自分の顔を覆った。
あの日、自分が『鬼』であると教えられた日に何を思ったかだなどという事は、今となっては覚えてもいないが、ただ今分かることは。
自分が人であろうと鬼であろうと、自分の中に確実に『鬼』が存在することだけは、確かだった。
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