□小説@ 8P 「……っ」 全身の痛みに耐えながら田之上はなんとか上半身を起した。 (あそこから滑り落ちたのか……) 上を仰ぎ見ると木々の隙間からはるか遠くの高台に、車の後部がかすかに見える。 「這い上がるのは……無理だな」 田之上は視線を下ろして改めて自分の体を確認した。 あちこちに擦り傷はあるが、手や足、首などに激痛を伴う個所はない。 木の枝や草木が上手くクッションになってくれたのだろう。 「骨折もしてないようだ。 不幸中の幸いか。――さてこれからどうする」 大きな怪我はないが、人が通りかかる場所ではないし、簡単に公道にでれる場所でもない。 へたをすれば田之上がここにいることさえ誰も知らないのだ。 「あの香苗さんの様子では助けは期待できないかもしれない。 となればある程度ここで様子を見てから自力で山を降りるしかないだろうな」 田之上はもう一度はるか上の高台に目をやった。 (願わくば、香苗さんが正気に戻っていてくれればいいんだが) 「ふふふ」 「あら、香苗さん今日はご機嫌ですね」 めずらしく笑い声をあげた香苗に別荘の管理人兼香苗の世話係りでもある圭子は声を掛けた。 シャキっとした姿は40代にも見えるが、もうすぐ還暦を迎える年になる。 夫を早くに亡くし三人の子供を女手一つで育て、無事それぞれ所帯を持ち、嫁にやった。 安堵と共に何もすることのなくなった自分に気がつき、この別荘の管理人と香奈の世話係りとして働くようになって5年になる。 「ええ、どうしてかしら、今日はここまで来るのがとっても楽しかったの。 いつもはあまり楽しいと感じたことがなかったのに」 香苗はもう一度笑みを浮かべたがすぐに首を横に倒した。 「……でも、何か忘れている気がするわ?」 「すぐに思い出さないのはたいしたことじゃないからですよ」 圭子は、香苗にやさしく言って甘い林檎の香りがたつ紅茶をカップに注いだ。 「そうね。 きっとたいしたことじゃないわ」 香苗はカップに注がれた紅茶の香りを楽しみながら、窓の外の景色を眺めた。 [前へ][次へ] [戻る] |