キスくらい 甘々 カイジが乙女
そういえば、あいつにしばらく、会ってねえな。
遅い昼飯にかぶりつきながら、カイジはふと、そんなことを思った。
とあるハンバーガーショップの二階。
窓際に設置されたカウンター席からは、眼下を走る道路の様子が見下ろせる。
青信号の交差点を行き交う人の群れをぼんやりと眺めていたカイジの心にアカギのことが過ぎったのは、白髪の男の姿が目に入ったからだ。
くたびれた初老の男で、もちろんアカギとはまったくの別人だったのだが、カイジは惰性的に食事を進めていた手を止めた。
最後に会ってから、どれくらい経つだろう。
左手の指を折って数えてみる。
確かまだ残暑の頃だったから、四ヵ月ほど前か。
そんなに経つのかと、カイジは軽くため息をついた。
元々、アカギの来訪はとても気まぐれだった。来るときは頻繁に来るが、来ないときはとことん来ない。
そういう奴の性質にはもう慣れたが、かといって寂しく思わないわけではない。
ポテトを抓んで口に運ぶ。
なんだか急に、食事が味気なく感じられた。
会いてぇな……
心の中でそう呟く。
面と向かって本人には絶対に言えないような、素直な言葉だった。
ぼんやり食事を続けながら、カイジは川のように流れる車や人を、見るともなしに眺めていた。
ハンバーガーを食べ終わり、箱の底にわずかに残ったポテトをトレイの上にざらざらと出す。
それを口に運びつつ、コーラを一口飲んだところで、カイジは激しく咳き込んでしまった。
周りからチラチラと送られる視線にちいさくなりながら、口許を拭うのも忘れ、大きく見開いた目で窓の外を食い入るように見つめる。
横断歩道を渡る人混みの中に、見つけたからだ。
ずっと、会いたいと思っていた男の姿を。
見間違いだろうかと、強く瞬きする。
よく目立つ、真っ白な髪。
鋭い目つき。長い手足。
ダウンコートのポケットに手を突っ込んだまま、人の中を泳ぐように歩く姿。
なんど見ても、見紛うことなき恋人の姿だった。
信じられない思いで、カイジは息を飲んだ。
久方ぶりに見るその姿に、心臓が痛いほど高鳴る。
偶然にも、男はカイジのいる店側へと渡ってくる。
歩調はかなり速い。ひどく急いでいるようだ。
ぽっかりと口を開けたまま、カイジがその姿に釘付けになっていると、男がふと目線を上げ、カイジの方を見た。
思わず、カイジはぴくりと肩を揺らす。
だが、男はすぐに目線を逸らし、足早に歩き続けた。
そして、どうやらカイジのいる店に入ってきたようだ。
鼓動が激しく脈打つのを感じながら、カイジはごくりと唾を飲む。
一瞬だが、確かに目が合ったような気がした。
アカギも、こちらに気がついたのだろうか?
オレがここに居るのを見つけたから、この店に入ったきたのだろうか?
考え込んでそわそわしていると、ややあって、ふたりの男の姿がカイジの目に飛び込んできた。
アカギを追うようにして現れたその男たちは、黒いスーツに身を包んだ強面の中年で、いかにもその筋の者だという匂いがぷんぷんと漂ってくる。
焦ったように辺りを見渡しつつ、赤に切り替わったばかりの信号を、歩道の向こうで苛々しながら睨んでいる。
その様子から、恐らく、アカギはこの男たちから逃げているのだろうとカイジは推察した。
だから、あんなに急ぎ足で歩いていたのだ、と。
しかし、追っ手から逃げているのなら、この店に入ってくるのはおかしい気もする。
追っ手との距離が十分にあるわけではないのだから、この店に入る姿を見られでもしたら、みすみす退路を断って自ら追い詰められるような愚かしい行為である。
そんなこと、あのアカギがわかっていないはずがない。
ではなぜ、アカギはこの店に入ってきたのか?
カイジは頭を捻ったが、考えられる理由は、ひとつしかなかった。
……自惚れていいのだろうか?
頬がうっすらと上気してくるのを感じながら、うわの空でカイジが窓の外を眺めていると、やがて信号が赤に変わり、黒スーツの男たちがまっすぐ店の方へ向かって来るのが見えた。
カイジは慌てて立ち上がると、まだ残っているコーラやポテトもすべてゴミ箱へ投げ入れて、狭い階段を下りた。
カイジが一階に着いたのとほぼ同時に、自動ドアが開き、さっきの男たちが入店してきた。
その、明らかに場にそぐわない風貌に、店内は一瞬、水を打ったように静かになる。
男たちは周囲の視線などお構いなしに、二手に分かれて苛立った様子で店内を彷徨き始めた。
奴等は、明らかにアカギを探している。
カイジは焦りつつも、店内をぐるりと見渡す。
アカギの姿はない。
二階にも上がってきた様子はなかったし、階段でも誰ともすれ違わなかった。
と、なると……残る場所は……
カイジは男たちの動向に注意を払いつつ、急いで階段脇のトイレへと駆け込んだ。
男子トイレのドアを開けると、果たしてそこに、ひとりの男が立っていた。
「ーー久しぶり」
まるでカイジを待ち構えていたかのように、アカギはそう言ってニヤリと笑う。
返事をすることも忘れ、カイジはただ呆然と、目の前の男を見つめていた。
なにか言わなくちゃという気持ちはあるが、言葉が出てこない。
四ヵ月ぶりに聞く声。四ヵ月ぶりに見る、皮肉めいた笑み。
四ヵ月ぶりの、アカギの姿。
それらで胸がいっぱいになって、ただもう呆けたように立ち尽くすカイジの様子に、アカギはわずかに苦笑する。
「……あんた、オレに会いたくてたまらなかったんでしょ?」
「えっ……!? な、なに言って……っ」
図星を突かれて動揺するカイジにゆっくりと近付きながら、アカギは幾分、声を和らげる。
「だって、オレもそうだったから」
間近まで迫られて、二、三歩あとじさったところでカイジの背中にドアが当たる。
「っ……バカなこと、言ってんじゃねぇ……」
近すぎる距離と、ハイライトの匂いに紛れて微かに漂うアカギの匂いにくらくらしながら、カイジは目線をアカギの方から逃がして個室のドアを見る。
幸い、今このトイレにはふたりしかいない。
「ふふ……つれねぇな。こっち見ろよ、カイジさん……」
低く掠れた声に鼓膜を擽られ、どうしようもなく顔が熱くなっていくのを感じつつ、カイジは口をへの字に曲げて渋々アカギの顔を見る。
視線が合った途端、その目が満足げに細められていくのを見ながら、カイジはぼそぼそと言った。
「お前、追われてるんだろ? あの、黒いスーツのヤクザ共に」
「あらら……バレてたか」
悪びれもせず眉を上げてみせるアカギに、カイジは仏頂面になる。
「いいのかよ? こんなとこで油売ってて。奴らもう、店ん中だぜ」
カイジなりにアカギを心配して訊いたのだが、
「いいよ……適当に、うまく躱すから」
アカギはそう言って、カイジの言葉を受け流した。
それから、そっと右腕をカイジの頭の真横に突き、肘を曲げて体を近づける。
「せっかくこうして会えたんだから、キスくらいしたいじゃない……」
アカギはそう言って笑う。
息がかかるくらい、互いの顔が近い。
ああ、やはり自惚れではなく、アカギはオレに会うためにこの店に入ってきたんだと、カイジは恥ずかしくも嬉しく思う。
……が、同時に、『キスくらい』というアカギの言葉に、ちょっとだけ不満を感じていた。
キスくらい、ということはたぶん、アカギはキスだけしたらもうカイジから離れ、隙を見て店を出ていくつもりなのだ。
当たり前だ。スーツの男たちがトイレに踏み込んでくるのもおそらく時間の問題だし、カイジに会うためだけにこの店に入ったのだとしたら、これでもう目的は果たしたのだから、さっさと出て行った方がいい。
そんなことは百も承知だ。だけど、カイジは面白くなかった。
せっかくこうして会えたのに、あっという間にさよならだなんて、あんまり薄情すぎやしないか。
恋人に会えて高揚する気持ちと、いつ追っ手が入ってくるかわからない緊迫した状況が、カイジをいつもより、すこしだけ大胆にした。
「……キスくらい?」
唇が重なる直前、カイジがそうぼそりと呟いたので、アカギは動きを止めてカイジを見る。
カイジはアカギの視線をしっかりと捉えたまま、半眼になって言った。
「ふーん……せっかくこうして会えたのに、キスくらいで満足するんだな、お前は」
顎を上げ、挑戦的に見つめてくるカイジを、アカギはしばらく目を眇めて見つめたあと、口を開く。
「……やっすい挑発……」
でもまあ……乗ってやるよ。
そう、呟くや否や、アカギはカイジに深く口付けた。
びく、と強く緊張したあと、カイジの体からはゆるゆると力が抜けていった。
潜り込んでくる舌。
せわしない獣の息遣い。
口の中いっぱいに溢れる、ハイライトとアカギの味。
カイジは鼻の奥がツンとした。
あ、やばい。なんか泣きそう。
不覚にもじわりと涙が滲んできて、カイジはぎゅっと目を瞑り、アカギの背に腕を回した。
口付けは、ものの十秒ほどでアカギの方から解かれた。
名残惜しげに繋がる糸をうっすら涙の滲んだ目で追っていたカイジは、燃えるような熱情を灯すアカギの視線に射抜かれ、ドクリと心臓を跳ねさせる。
アカギはすっと目を細め、カイジの耳に息を吹き込むようにして囁いた。
「奴らに話つけてくる……逃げんなよ、カイジさん」
そして、カイジの頭をぐしゃぐしゃと撫でると、大きくドアを開いて外へ出て行った。
遠ざかっていく足音を聞きながら、カイジは腑抜けのようにその場にただ突っ立っていたが、
「逃げる……わけ、ねぇだろ……」
しばらく間をおいてから、かろうじて一言、ぼそりと呟いた。
その後、アカギがどのようにして男たちに話をつけたのかはまったくの謎であるが、数分ほど後に無事ふたりは連れ立って店を出て、キスくらいじゃすまないようなことをするため、雑踏の中帰路を急いだのだった。
終
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