天衣は綻ばない・3


 辺りは水を打ったように静かになり、しげるはしゃがみこんでカイジの顔を見る。

「カイジさん……大丈夫?」
 いつも通りのしげるの声に、助かったのだという実感がようやく湧いてきて、カイジは大きく息をついた。

「ああ……大したことねえよ。これくらい……」
「嘘。立てないんだろ?」
 強がりを一発で見抜かれ、カイジはハハ、と曖昧な笑いを漏らす。
 貼りつけたようなその笑みが曇っているのを見て、しげるは瞬きした。

「カイジさん?」
「……ごめんな、しげる」

 唐突に謝られて、しげるは眉を上げる。
「なんで、カイジさんが謝るの? 巻き込んじまったのは、オレの方なのに」
 不思議そうにするしげるの顔を見ず、明後日の方向を向いたまま、カイジは胸の内を話し始めた。

「お前ひとりだったら、きっとこんな風にはならねえのに。オレが、狙われたから……うまく躱そうと思ったけど、できなくて……お前に迷惑かけちまったよな」
 罪を懺悔するみたいに、カイジは項垂れる。

 いつかこんなことになるのではないか、と思ってはいたのだ。
 しげるとやり合って、勝ち目がないと痛感させられた連中が、次に狙う相手。
 近しい人間を狙うという報復。だがカイジが本当に恐れているのは、見知らぬ相手からの暴力そのものではない。

 しげるほど数は多くないかもしれないが、カイジもそれなりに修羅場は潜ってきた。恐ろしくないと言ったら嘘になるが、胆力は人並み以上にあるつもりだし、いざとなれば逃げ足にだって自信がある。

 カイジが本当に怖いのは、自分の存在がしげるの枷になること。
 今回のようなことがあると、しげるはきっと助けに来てくれる。そのことが、しげるの重荷になっていやしないか、と。
 なによりも大切な自由を奪い、天衣の裾を重くして、やがては引き裂いてしまうのではないかと。

 だから今回も、数日前から自分をつけ狙う連中の存在に気がついていながら、それがしげる絡みの輩だとわかっていながら、しげるに伝えなかった。
 自分ひとりでどうにかするつもりだった……その結果がこの有様だけれど。

 カイジの独白を、しげるは黙って聞いていた。
 涼しい夜の風が、ふたりの間を吹き過ぎていく。
 やがて、しげるの口から今まで聞いたこともないくらいの大きなため息が漏れたので、カイジはびくっとした。

「し、しげ……」
「あんたは、なんにもわかってないね」

 ため息のついでみたいにしげるが言って、カイジをじろりと睨みつけた、次の瞬間。

「う、おっ……、!!」

 カイジの体がふわりと浮き上がり、気がつけばしげるの腕の中。
 背中と膝裏を支えられて、これはいわゆる、横抱き。俗に言う、『お姫さま抱っこ』。

「!!??」
 驚けばいいのか怒ればいいのか、あまりに予想の斜め上をいくしげるの行動にカイジはただ、口をパクパクさせる。
「おお、おま、おま、」
「オレはね、カイジさん」
 言葉にならないカイジの声を遮り、しげるは真顔で話し始める。

「こう見えて結構、力、あるんだ。あんたひとり抱えるくらい、重荷でもなんでもない。あんたの存在なんて、足枷にはならねえよ。……ガキだからってあんまり、見くびって貰っちゃ困るな」

 その声も、間近にある双眸も真剣そのもので、突き刺さるようにまっすぐなそれらを受け止めきれず、顔を背けてカイジはわたわたし始める。

「お、おま、腕怪我してんのにっ、こんなっ、」
 そこまで言って気がつく。ツッコむべきところはそこじゃねぇだろっ……!!

「おっ、前っ……!! これは、ねえだろうがっ……!!」
 錯乱しすぎているカイジの上擦った声に、しげるはすました顔で言う。
「重荷だなんだって、あんたがうじうじ余計な考えを止めるまで、オレはこうし続けるよ」
 ニヤリと笑って、しげるはそのまま歩を進めようとする。

 瞼を裂かれそうになっても呑み込んだ悲鳴が、ここへきて、カイジの口からあっさりと漏れ出した。
「わかったっ、もう、わかったからっ……!! おっ、降ろせぇっ……!!」
「歩けねえんだろ? 大人しくしてなよ」
 真っ赤な泣きっ面でじたばたと暴れるカイジを軽々と抱き上げたまま、しげるは夜明け前の道を歩き出す。

 それからしばらくのあいだは、しつこく降ろせ降ろせと喚き散らしていたカイジだが、しげるにまったくその気がないとわかると、だんだん大人しくなっていった。
 すこしでも目立たぬよう、白い細腕に余る体をきゅうっと丸め、道行く誰にも顔を見られないよう、薄い胸に蒼白な顔面を押しつけるカイジに、しげるはクスクス笑い、歌うように告げる。

「オレはオレのしたいようにするよ。あんたが傍にいようと、いなかろうと、それは変わらない」

 しげるが喋ると、その声は振動となってカイジに伝わってくる。
 顔が火を噴くほどの恥ずかしさを感じながら、カイジはああそうかよと、ヤケクソみたいになんども頷いた。

 とんでもない思い違いをしていた。
 カイジは唇を噛みしめる。

 空を自由に泳ぐ天衣は、自分ごときの重みで綻ぶほど、ヤワなものじゃなかったのだ。それを憂慮してぐるぐる考え込むなど、思い上がりだったとすら言える。
 しげるの言うとおり、自分は見くびっていたのかもしれない、その強さを。


 もう十分それはわかった、死ぬほど痛感した。
 だから、頼むから一刻も早く家へ連れ帰ってくれ、と願うカイジを無視して、しげるは悠々とした足取りでしっかり地面を踏み、歩く。

 空に茜が差している。自分の胸に顔を伏せたままのカイジに、しげるは夜が明けたことを、やわらかい声で教えてやった。






 

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