天衣は綻ばない・2


「なぁ、あんた。ちょっと面貸せよ」

 翌日のバイト帰り、草臥れた体を引き摺るようにして歩いていたカイジは、聞き慣れぬ声に呼び止められた。

 振り返らずとも伝わってくる、剣呑な空気。一人ではない、複数人いる。
 時刻は午前四時、周囲に人影はない。カイジは足を速め、そのまま歩き去ろうとする。
「おいおい、無視してんじゃねえよ、兄さん」
 建物の影から歩み出てきた男二人に立ちはだかられ、カイジは仕方なく足を止めた。

 体格は、どちらも中肉中背。
 声から推し量ると年齢は自分と同じか、すこし若いくらいか。全員、黒い目出し帽を被っているから素性はわからないが、知る必要もないだろう。

「あんた、赤木しげると顔見知りなんだってなぁ」
 その名前が出てくることに、カイジはなんの不思議も感じない。
 いつかこんなことになるのではないか、と思ってはいたのだ。

 しげるとやり合って、勝ち目がないと痛感させられた人間が、次に狙う相手。
 近しい人間を傷つけるという報復。自分に白羽の矢が立てられた、ただそれだけのこと。実にわかりやすい構図。

 ここ数日、外で視線を感じることが頻繁にあって、でもそれが帝愛絡みじゃないことはわかっていた。奴等のやり方とは根本的に違う、明け透けなほどの露骨さがあった。そこへ持ってきて、昨日のしげるの怪我だ。
 つまり、ここにいる奴等が、しげるにあの傷を負わせた連中に他ならないのだろう。

「あんたにはなんの恨みもねえが、ちょっとばかり痛い目に遭って貰うぜ」
 目の前の二人を睨み据えたまま、背後から近寄る気配にカイジは神経を尖らせる。
「あの糞生意気なガキに、仲間が一人、病院送りにされたもんでね……」
 憤りを凝縮させたような、ネチネチした声。前に二人、後ろに二人。まともに闘っても、勝ち目はない。カイジは深呼吸する。

 逃げられるか? 相手を怯ませて一瞬でも隙を作れば、あるいは。

「オレらとしてはやっぱり、キッチリお返ししたいわけよ。赤木くんに」
 目の前、カイジから見て右側に立つ男が首を鳴らしながら近づいてくる。血の気が多く、軽薄そうなその男の腕が自分の方に伸ばされるのにタイミングを合わせ、カイジは素早く身を屈め男に向かって弾丸のように飛び出した。
「!! ……っの、」
 真正面から強かに体当たりを喰らった男は、カイジの意外な行動に蹈鞴を踏む。
 男が体勢を崩した、その隙を見逃さず鳩尾に猛烈な蹴りを一発お見舞いする。体を折って咳き込む男を横目に、カイジは薄暗い道を一目散に駆け抜けようとした、だが。

「!! ……っぐっ……!!」
 前にいたもう一人の男に腹を殴られ、つんのめった足を払われてカイジは膝を折ってしまう。
「っこの野郎……タダじゃおかねえっ……!」
 蹴りつけられた男が憤怒に燃える目でカイジを睨み、ゆらりと近づいてくる。

 タダじゃおかねえって、今更? 端っからそのつもりだった癖に?

 背中を冷や汗が垂れて流れる。ピンチのはずなのに男の台詞が妙に可笑しくて、カイジは鼻で笑う。
 すると、男はカッと目を見開き、口から泡を飛ばして激昂した。
「テメェ、なに笑ってやがるっ……!!」
「う、ぐぁッ……!!」
 容赦なく右足首を踏みつけられ、カイジは苦悶する。
「なにがっ、可笑しいかっ、言ってみろッ、あぁッ!?」
 言葉の区切れごとに、なんどもなんども同じ箇所を踏まれ、声も出ぬような激しい痛みにカイジは芋虫の如くのたうち回る。
「おいおい、ちょっと落ち着けって。すぐ熱くなんの、お前の悪い癖だぜ?」
 残りの三人の失笑が降ってくる、だが血走った目で足を痛めつける男の暴力は止まない。
 痛みに痛みが重なり感覚が麻痺してくる、折れてはいないだろうが、もうひとりで歩ける気がしない。
 あまりの苦痛に生理的な涙が溢れ、コンクリに這い背を丸めて堪えるカイジ。その頃になってようやく、「もういいだろ」という仲間の言葉に男は足を退けた。

「……舐めやがって……ブチ殺すぞ、テメェ……」
「ごめんねーお兄さん。コイツ怒らすとマジ、ヤベーから。まー、お兄さんの自業自得ってヤツ」
 未だ治まらぬ怒りに肩で息をする、その男の肩を叩いて仲間の一人がのんびりとした声をカイジにかける。
 前髪を掴まれ、顔を上げさせられる。目出し帽から覗く狐に似た目を、痛みに歯を食いしばりつつカイジは睨め上げる。
「もう逃げられねぇよ。諦めな。……安心しろ、殺しゃしねえよ。死んだ方がマシだと思うかもしれねえけどな」
 憐れむような声。男がポケットからなにか取り出す、慣れた手つきで素早く操作し、鈍く光る刃が現れる。
 バタフライ・ナイフ。しげるを傷つけた刃物だろうか?
 絶体絶命の危機だというのに、その刃を見たとたん、どす黒い怒りがカイジの心に湧いてくる。

 この苦境に陥ったのも、元はといえば連中への怒りを抑えられなかったのが原因だ。男に体当たりを喰らわせたあと、脇目も振らずそのまま駆け出していれば逃げ果せたかもしれない。
 しかし、コイツらがしげるにあの傷を負わせたのだと思うと、足が勝手に動いて男に蹴りを喰らわせていた。
 カイジは目を閉じる。しげるなら、こんな一時の感情に流されて下手を打つこともないのだろう。

 横っ面を殴りつけられ、カイジは地面に転がって激しく咳き込んだ。口の中が切れたのか、唾液に血の味が滲む。
「寝てんじゃねえよ。ったく、あのガキといいアンタといい、どこまでも人を舐め腐りやがって……」
 ナイフを持った男が苛々と呟きながら、カイジの右瞼を持ち上げる。
「え……お前、最初っから目ぇやっちゃうの?」
 仲間の驚いたような声に、ナイフを持つ男は頷いてみせる。
「当たり前だろ。赤木にアイツがどんな目に遭わされたか、考えればこれでもまだ足りねえくらいだ……」
 ガラスを引っ掻くような耳障りな声をたて、男は笑った。目出し帽から覗く目が興奮に見開かれている。
「うわ、キッツいなー……俺、グロいの苦手だからさっさと終わらせてくれよ」
「いきなり抉るんじゃつまんねえだろ、まずは瞼を切り落とすんだよ……」
 めいめいに好き勝手なヤジを飛ばす仲間の声。男のやろうとしていることがわかり、カイジは震え上がる。しかし、男は仲間の声すら届いていないように息を荒げ、身を震わせていた。マスクの下で舌舐めずりする様子が見えるようだ。
「この、異常者が……」
 憎々しげなカイジの呟きに、男は喉を引き攣らせて笑う。
「遠吠えてられんのも、今のうちだぜ? じゃあ……リクエストに応えて、まずは右の瞼から……」
 鋭い刃先が眼前に近づいてきて、カイジは歯の根も合わぬほど震え始める。情けない、と思う余裕すらない、ただただ恐怖しかない。

「ヒヒ……動くなよ? 手元が狂って目ん玉串刺しにしちまうかもしれねぇからな……」

 恐怖で涙が出そうなのに、瞼が下ろせず目は乾く一方だ。荒い獣の息遣い、自分ものか男のものか最早わからない。
 ひんやりとした刃先が瞼にあたり、押し殺した悲鳴がカイジの喉奥から漏れかけた、その時。


 ゴキャッ、となにかが折れるような、鈍い音。
 ナイフの男を見守っていた仲間の内の一人が、膝から崩れ落ちて昏倒した。
「!? どうした……」
 言いかけた男の頭に、後ろから飛んできたなにかがゴツ、と当たる。
「〜〜ッ!!!」
 頭を抱えて悶絶する男。その傍らには掌からやや余るほどの大きさの、四角い煉瓦が落ちていて、よく見ると昏倒している男の側にも、真っ二つに割れた煉瓦が転がっていた。
「なん、……ッ!?」
 異常事態にカイジから離れたナイフの男が、煉瓦の飛んできた先を見て瞠目する。
 カイジもその視線の先を追って、目を見開いた。
 薄暗がりでもくっきりと白い髪、膚、半袖の学生服。
 鋭い目が焔のように燃え、しげるは雪崩のような物凄い勢いでカイジたちの方へ飛び込んでくる、その手に鈍く光る鉄パイプ。
「ヒッ! た、助け……ッ」
 残った二人の内の一人が、しげるを見たとたん悲鳴を上げて逃げ出そうとする。それを許さずしげるは背後から猛烈な勢いで殴りかかった。
「ぁグッ……う、ぅ」
 脳天をかち割るような一撃を食らい、男が白目を剥いて倒れる、それを見届けもせずにしげるは体の向きを変え、残りの一人に対峙した。
「ぐ……っ、クソ……ッ!!」
 一人残されたナイフの男は、ギリギリと歯軋りの音をさせてしげるに刃先を向ける。
 だがその手はカタカタと細かく震え、カイジの瞳を傷つけようとしていた時の活き活きとした様子とはまるで別人のよう。明らかな恐怖が、男を小動物のように震え上がらせていた。
「ぐっ……畜生ぉォっ!!」
 破れかぶれになったかのように、男は大声を上げて一直線にしげるに向かってくる。最初の一撃を容易く避け、しげるは隙だらけになった男の背後を取ると、鉄パイプを投げ捨てて二本の腕で男の首を絞めた。
「ぁぐ、ぐ……ゥッ」
 まだ細い腕の、いったいどこにそんな力があるのか、太い首をギリギリと絞め上げられる男の顔はみるみるうちに真っ赤に腫れ上がり、逃れようと藻掻いていた体もやがて力が抜け、ぐったりしてくる。
 急転直下、怒濤の展開を呆気にとられて眺めていたカイジは、地面にナイフの落ちる金属音を聞きようやく我に返った。
「し……しげるっ……!! やめろっ、それ以上やったら死んじまうっ……!!」
 しげるに近づこうとして、走った鋭い足首の痛みにカイジは自分が立ち上がれないことを思い出す。
 激痛に悶絶しながら、なんとか地面を這い、しげるの足にしがみつく。
「おい、やめろって……! しげるっ……!!」
 必死にカイジが訴えると、しげるはようやく男を絞めていた腕を緩めた。
 地面に手を突き、背を丸めて激しく咳き込む男を無表情に見下ろし、しげるは呟く。
「さっさと失せろ……今ここにいないお前の仲間と、同じ目に遭わされたくねえなら……」
 その声は淡々と静かで、だからこそ底冷えするほど冷たく重い。凍てつくような瞳に見下ろされ、男はブルリと胴震いすると、呻き声を上げている仲間の一人を叩き起こし、残りの二人を担いで這々の体で逃げ出していった。



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