天衣は綻ばない・1 甘々 暴力描写注意




 白い腕を切り裂いた、生々しく赤い傷痕。
「また、喧嘩か」
 眉を顰めるカイジの視線を辿り、しげるは今の今までその存在を忘れていたかのように、「ああ、」と呟いた。
「オレじゃないよ。向こうから吹っかけてきたんだ」
「……わかってるよ」
 ぼそりと言って、カイジはその腕を取る。

 小型の刃物で切りつけられたのだろう。肩の下、二の腕の外側を抉ったような五センチほどの傷には、既に赤みを帯びた肉芽がうっすらと盛り上がってきていた。
 出来た直後というわけでもないが、そう時間が経っているわけでもなさそうだ。
 しげるが修羅場でこの傷をこさえたのが四、五日前といったところだろうか、と予測して、カイジはため息をつく。

『向こうから吹っかけてきた』というしげるの言葉はたぶん、嘘ではない。
 相手の力量がどれほどのものかは知らないが、どんなに強い相手だとしても、しげるの方から誰かに因縁をつけるなどという事態は、万に一つも考えられない。

 しげるの佇まいは、荒事と無縁であるかのように超然として静かなのだ。
 それでも、不思議と目立ってしまうしげるはいつも、誰かの標的にされる。
 そして、売られた喧嘩は必ず買うのがしげるであり、返り討ちにした相手から恨みを買い、憎しみが憎しみを、噂が噂を呼んで、しげるをつけ狙うきな臭い連中の影は常に後を絶たなかった。

「何人いたんだよ、相手?」
 カイジの問いかけに、
「四人……いや、五人だったかな」
 なんでもないことのように答える。

 一対五。しかも相手は刃物を所持している。その状況下で、たったこれだけの傷で済んでいるということは、奇跡に近いと言って良かった。
 ただ、存在自体が奇跡のようなこの少年は、そんなの当たり前の結果だと思っているようだったが。

「たいした傷じゃない。すぐに治るよ」
 しげるは軽く言ったが、カイジは渋い顔で傷口を見つめている。
「……あまり無茶すんなよ、お前」
 耳にタコが出来るほど聞かされた言葉に、しげるは、またか、とでも言いたげな顔をした。

「相変わらず、過保護だな。あんたまるで、オレの母親みたいだ」
「……悪かったな」

 好きな奴の心配して、なにが悪い。
 と、カイジは心の中だけで毒づく。

 仏頂面のカイジにクスリと笑い、しげるは囁きかけた。
「嘘だよ。……母親には、こんなことしない」
 傷のある頬に鼻先を擦り寄せ、しげるは目を伏せてカイジの唇を舐める。
「傷、まだすこし痛むから、紛らわしてよ」
「……どうやって」
 なにを要求されているのか、この流れでわからないほど鈍くもなかったが、カイジは敢えて問いかける。
 すると、しげるは喉を鳴らしながら、カイジの腰をぐいと抱き寄せた。

「あんたは、なにもしなくていい」

 唇が重なって、すぐ舌が潜り込んでくる。
 口づけを受け入れながら、カイジは薄目でしげるの腕を見る。

 晒したように白い腕に、鮮やかに走る、一筋の断裂。
 目を閉じても、それはカイジの瞼の裏にくっきりと焼きついて、離れなかった。

 天衣無縫。
 その言葉そのもののような、しげるの生。
 自分の好きなように振る舞い、生きたいように生きる。
 ひとりきりでどこへだって行ける。飾り気もなく、なにひとつ取り繕う必要もない。
 自由奔放なその生き様は、気持ちいいほどまっさらで、風を受けて自在に泳ぐ薄い衣のようだった。

 だけど最近、それを綻ばせるのが自分なのではないかという懸念が、カイジの心を過ぎるようになった。
 しげるにとって自分の存在が、枷になりうるのではないか、と。
 愛情を注いで、しげるも自分を好いてくれている。
 だけどそれは、天衣を髣髴させるしげるの生き方には、重荷なのではないだろうか?
 裾にぶら下がって、やがてはその重みで衣を裂いてしまうことになりはしないだろうか?
 なによりも大切な自由を、奪うことにはならないだろうか?
 白い膚を裂いた傷の存在が、そんな憂いをカイジに呼び起こさせた。

「カイジさん?」
 いつの間にか考え込んでしまっていたカイジを、しげるが不審そうに覗き込む。
「……なんでもねぇよ」
 カイジはそう言ったが、露骨に曇った表情は隠し切れていない。

 しげるは黙ってそんなカイジを見つめていたが、やがて口端をつり上げた。
「こんな時に考えごとなんて、無粋にもほどがあるぜ。……まぁ、いいよ。すぐになにも考えられなくしてやるから」
 不敵に笑い、首筋の皮膚を吸われる。むず痒いような甘さを感じながら、やはりカイジの気分は晴れないままだった。



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