見る目 いちゃいちゃ
「止まれ」
やけに神妙な顔つきでカイジがそう言ったので、アカギは部屋に上がろうとしていた足を止めた。
苛立ったように顔を顰める。
「なに? オレ疲れてんだけど。早く上がらせてよ」
「お前、その状態でよくそんな厚かましいこと言えんな……」
カイジはアカギの頭の天辺から爪先までを、睨むようにじろじろと見た。
その頭も体も、絶えず雫が滴り落ちるほどびしょ濡れ。
着衣は水を吸って色が変わっており、アカギの立っている玄関の三和土にはじわじわと水たまりが広がっているーーが、この際今は目を瞑るとしよう。
雨に降られたにしても酷すぎる濡れようだが、極論、拭けば済む話だ。
が、着衣の胸から下を真っ黒に染めている、ヘドロのような正体不明の汚れーーこれはいただけない。
いったいどこでどんなやんちゃをしてきたのやら、よく見るとその白い髪にも肌にも掌にも、同じ汚れがこびりついている。
これだけ水に濡れても頑固にへばりついているところを見ると、どうもただの泥汚れではないようだ。
おまけに、臭う。油と生ゴミが合わさったような、胸の悪くなる悪臭の出所は、どう考えても、その黒いヘドロだった。
「お前、いったいどこでなにしてきたんだよっ……汚ぇし、くっせぇぞ」
鼻をつまんで顔を背けるカイジに、
「ちょっとね……厄介な連中に追われてて、やむを得ず、下水管の中を……」
アカギはおざなりに答える。
「げっ下水管っ……!? オレ、そんなん映画でしか見たことねぇぞっ……! マジ、お前って何者なんだよっ」
「どうでもいいよ、そんなこと……」
驚愕するカイジをよそに、アカギはため息をつくと、ぐちゃぐちゃに濡れそぼった靴を脱ぎ、さっさと部屋に上がろうとする。
「まっ待て、止まれっつってんだろこのアホっ……!!」
カイジは慌ててアカギの肩を掴んで止める。
二度も止められ、アカギはこの上なく不機嫌な凶相でカイジを見た。
「……なに?」
「服脱いでけ。ここで」
カイジの真剣な眼差しに、アカギは軽く目を見開くと、ふっと笑って目線を斜めに逸らした。
「珍しく積極的じゃない、カイジさん。だが……悪いな、今日は本気で疲れ」
「床が!! 汚れるからだよ!!!」
軽口を強く遮り、怒りのあまりぜえぜえと肩で息をするカイジに、アカギは片眉を上げる。
「嫌だよ、面倒くせえ」
きっぱりと断るアカギに、カイジは額に青筋を走らせ、張りつけた笑みの口許をヒクヒクと引きつらせながら言う。
「あーそうかよ。だったら勝手にしろ。言うとおりにしねえと、死んでもこの部屋には上げねえからな……」
怒気をゆらゆらと立ちのぼらせるカイジを見て、アカギは軽く肩を竦めた。
「……はいはい」
いかにも仕方なく、といった様子で、アカギは汚れた着衣に手をかける。
「脱いだ服は、とりあえずそこに固めて置いとけ」
カイジは腕組みして、偉そうに指示を出す。
ダウンコートとその下のシャツを纏めて脱ぎ、言われたとおり三和土の上に置いたアカギは、カイジを見て言った。
「あんたも手伝ってよ」
「はぁ? ガキかお前は。服ぐらい自分で脱げんだろ」
冷たくバッサリと切り捨てられるも、アカギはまったく気にしていないようすで、自分の下肢を指さした。
「下がさ。べったり貼りついちまって、オレひとりじゃ難儀しそうだからさ……」
頼むよ、とせがまれ、胡散臭げな顔をしつつも、カイジは渋々アカギの前に立つ。
ベルトに手をかけ、事務的な手つきで手早く外し、抜き取る。
ジーンズのボタンを外し、チャックを下ろし、嘗めるように注がれる視線にイラつきながらも、皮膚をひっぺがすような乱暴さでジーンズを腿の辺りまで下ろしてやった。
「ほらよ。あとは自分でやれ、このアホ」
刺々しい言い方に「色気もへったくれもねえな」とぼやきつつも、アカギは濡れた靴を脱いで転がし、ジーンズの裾に靴下を巻き込んで一緒に脱ぎ捨てた。
「これでいい?」
下穿き一枚で三和土に立って問いかけるアカギに、
「まだだ。ちょっと待ってろ」
カイジはそう言い捨て、急いで部屋へ引っ込むと、渇いた大きなバスタオルを手に戻ってきた。
「ほら、これで体拭け」
バサリと頭からタオルを掛けられ、アカギは緩慢な動作で体の水分を雑に拭き取る。
そして、まだ濡れた体のまま、上がり框に足をかけた。
「あっコラ、まだ……うわっ!」
そのまま、倒れ込むようにして抱きつかれ、湿り気を帯びた体がべちゃりと貼りつく感触に、カイジは怖気を走らせる。
「てめ、離れろクソがっ……! 冷てえんだよ!!」
「……疲れた……」
はー、と深く息を吐きながらの呟きに、カイジは思わず暴言を止める。
珍しく、心底疲れきったような声だった。
この寒い中、こんなに汚れるまで逃げ回っていたのだ。さすがのアカギも、身に堪えたのだろう。
冷え切った体がちょっと可哀想に思えてきて、カイジはほんのすこしだけ声を和らげる。
「風呂湧かしてあるから、入ってこいよ」
すると、アカギはカイジの体に凭れたまま、ぐずるように言う。
「……いいよ、風呂とか……それより今日はもうこのまま寝かせて……」
「駄目だ。ベッドが臭くなる」
『これだけは譲れない』とばかりに、厳しい声でぴしゃりと言い放つカイジに、アカギはぼそりと言う。
「鬼……」
「なんと、でもっ、言えっ……! この家、ではっ、家主の、オレの、言うこと、はっ、絶対っ、だからなっ……!!」
嫌がらせのようにぐぐぐと体重をかけてくるアカギの重みに、全力で足を踏ん張って堪えながら、カイジは負けじと強く言い放つ。
やがて、アカギは諦めたようにふっとカイジから離れると、ため息混じりに言った。
「……わかったよ。風呂借りるぜ」
冷たい体をしんどそうに引き摺って歩き出すアカギに、カイジは念のため、声をかける。
「ちゃんと、体流してから湯船に浸かれよ」
聞こえているのかいないのか、返事もなく気怠げに部屋の奥へと消えていく裸の背中を見送りながら、カイジはちょっとだけ罪悪感に苛まれる。
(そのまま寝かせてやればよかったかな。でも、風呂入った方が体あったまるだろうし……)
表では『ベッドが臭くなる』なんて悪たれ口を叩いたが、本当はカイジなりにアカギの体を心配していたのだ。
しかし、アカギも風呂に入ることに決めたようだし、とカイジは気持ちを切り換える。
「とりあえず、この惨状をどう処理するかだな……」
アカギの脱ぎ捨てていった抜け殻たちを眺めながら、カイジはひとりごちる。
離れていても悪臭が漂ってくる。こびりついた汚れは洗ったとて落ちそうにもないし、勿体ないけどこの服は捨てるしかなさそうだ。
アカギは、服になど頓着しないだろうし。
カイジは台所からゴミ袋を取ってきて、アカギの服を纏めてその中に突っ込んだ。
濡れた床を雑巾で拭き取り、汚れたそれもゴミ袋に入れる。
袋の口をきつく縛ると、嘘のように悪臭が消えた。
この袋をどう処分するかが頭の痛い問題なのだが、とりあえず、今夜はこのまま玄関に転がしておいて、また明日考えることにしよう。
明日できることは今日やらない。そんな風に現実逃避をしながら、カイジは部屋へと戻った。
風呂場から水の音がする。アカギはちゃんと風呂に入っているらしい。
アカギのことだ、たぶん着替えなど持っていないだろうと踏んだカイジは、替えの下着と寝間着を持って脱衣所へ向かった。
「アカギ……下着と寝間着、置いとくからな」
磨りガラス越しに、カイジはアカギに声をかける。
だが、シャワーの音はしないのに、返事がない。
「アカギ?」
再度呼び掛けるが、やはり返ってくるのは沈黙のみ。
不審に思ったカイジがそろそろと引き戸を開けると、アカギは浴槽の中で船を漕ぎ、今にも湯に沈みそうになっていた。
「寝るなっ……!」
カイジが声をかけると、アカギははっと目を覚ます。
重たげな寝ぼけ眼で二、三度瞬いてから、「ああ、悪い……」と呟く。
それから、浴槽の縁に置いてあった缶ビールにつと手を伸ばし、喉を反らせて飲もうとしたので、カイジは慌てて風呂場に上がってその手から缶を奪った。
「おまっ……勝手になにやってんだっ……!!」
アカギは眉を寄せ、不機嫌極まりない顔をする。
「え……いいじゃねえか一本くらい。ケチケチすんなよ、どうせこのビール代も、こないだオレが貸してやった金から出てんだろ?」
「ぐっ……! そ、そうだけどっ……!」
痛いところを突かれてカイジはたじろいだが、気を取り直して強い口調で嗜める。
「べつに、ビールが惜しくて言ってるんじゃねえよっ……! 風呂の中で飲むのは危ねえから、やめろって言ってんだっ……!」
取り繕うような早口の怪しいカイジを半眼で見て、アカギは鼻を鳴らした。
「ま……いいさ……『家主の言うことは絶対』……なんだろ?」
「お、おお……わかってきたじゃねえか」
やけに物分かりのいいアカギに、カイジは機嫌良く頷いてみせる。
「じゃ……着替え外に置いてあるから」
そう言って、カイジは浴室から出て行こうとしたが、ちゃぷりと水の跳ねる音とともに手首をぐっ、と引かれて立ち止まる。
「……なんだよ」
湯船から身を乗り出して自分の手を掴むアカギを、カイジは胡乱げな顔で見る。
すると、アカギはカイジの手首を掴んだまま、浴槽の外へ頭を垂れるようにして深くうつむいた。
「はい」
「?」
「頭」
「だから、なんだよ……?」
「洗って」
「……」
絶句するカイジをよそに、アカギは黙ったまま頭を垂れ続けている。
「はぁぁ? オレに洗えってのか!?」
カイジの素っ頓狂な声にも、アカギはやはり黙ったまま頷いてみせる。
あまりに呆れすぎて、力の抜けた声でカイジは言う。
「自分で洗えよっ……! ガキじゃあるまいし」
「面倒くせえ」
「お前なあっ……!」
文句を言いながら離れようとするが、強く掴まれた手はどう振っても引っ張っても離されそうにない。
カイジは眦を吊り上げてアカギを睨むが、アカギは完全に項垂れたままなので、白い後頭部しか見えない。
結局、このままでいても埒があかず、カイジは観念するしかなかった。
「わぁったよっ……! やるよ。やればいいんだろっ……!?」
捨て鉢のように叫ぶ声を聞いたとたん、カイジの手首を掴む力がぱっと緩められる。
「よろしく」
下から見上げ、ニヤリと笑う顔が憎たらしく、鼻の上に皺を寄せつつも、カイジはビールの缶をアカギの手の届かないところに置き、濡れた靴下を脱ぎ捨てた。
服も脱ぐべきかと迷ったが、アカギの手前、なんとなく抵抗がある。
結局、濡れるのを覚悟で袖まくりをし、ジーンズの裾をたくし上げて風呂の椅子に座った。
シャワーを持ち、蛇口を捻る。
湯の温度が安定するのを待ってから、おとなしく突き出された頭に湯をかけていく。
そこで、ふと気がついた。
思えば、自分以外の誰かの髪を洗うのは初めてだ。
「熱くねえか?」
カイジが訊くと、アカギは首を横に振った。
細くて白い髪に指を潜らせる。
爪を立てないように注意しながら、髪と頭皮の汚れを落とす。
予洗いが済んだら、シャンプーを掌に出し、軽く泡立てて洗い始める。
他人の髪を洗うというのは、なかなか奇妙な感触だった。
アカギの髪はカイジよりずっと短いので、すくない量のシャンプーでも、すぐに白い泡がたくさん立った。
自分の髪じゃないから、ちゃんと洗えてない部分が一目でわかる。
最初は嫌々だったはずなのに、妙なところで神経質なところのあるカイジは、いつの間にか熱心に手を動かしていた。
忘れがちな襟足や耳の後ろ、前髪の生え際なんかも細かく洗ってやると、アカギがぽつりと、
「なかなかうまいね……カイジさん、床屋になれるよ」
などと世辞にもならぬようなくだらないことを言ったので、カイジは無視してやった。
普段、自分の髪を洗うときよりも遥かに長い時間をかけ、納得のいくまで洗い終えると、カイジはふたたびシャワーを手に取る。
湯気の上がるあたたかい湯で、すすぎ残しのないように丁寧に泡を落としていくと、露わになったアカギのうすい耳と項が、ほんのり赤く色づいていた。
蛇口を閉め、カイジは軽く息をついた。
「終わったぞ」
声をかけるも、アカギはぽたぽたと髪から雫を滴らせたまま、うつむいて黙りこくっている。
「寝・る・な!」
ぱし、と後頭部をはたくと、ぴくりと肩を揺らしたあと、アカギはようやく顔を上げた。
頭の形に添うように、濡れてぺったりと貼り付いた前髪の隙間から覗く目は、今にも寝落ちしてしまいそうに細められている。
呆れてものが言えないとはこのことだと、カイジは唖然とする。
普段の超俗的で、怜悧な『天才』赤木しげるは、いったいどこへ行ったのか。
わがままで、同じようなことでなんども叱られるくせに、人の話を聞いてない。
まるで大人の皮を被った、大きな子供だ。
さらに問題なのは、こういったことが今回に限らず、もはや日常茶飯と言えるほどの頻度で引き起こされているため、カイジまでもがいい加減慣れてしまいつつあることだった。
浴槽に背を預け、ずるずると沈んでいくアカギを見ながら、カイジは疲れたようにため息をついた。
「つくづく……男を見る目がねえんだな、オレって」
すると、アカギはとろんと緩んだ双眸でカイジを見て、きっぱりと言い切った。
「そうかもね。でも、オレは自信ある。男を見る目」
浴槽の縁に組んだ腕の上に顎を乗せ、アカギはやわらかく目を細める。
カイジはひとつ、瞬きしたあと、ぎこちなく目を逸らした。
「男じゃなくて、『召し使い』とかが正しいんじゃねえの?……お前の場合」
ぼそぼそとぶっきらぼうに言うカイジの、微かに赤く染まった頬を眺めながら、アカギはすこし考えるような顔になる。
「いや、召し使いっていうより……」
そこで言葉を切り、口端を吊り上げた。
「『嫁』かな」
「おい、やめろっ……! お前、頭沸いてんのか?」
照れているのか嫌がっているのか、わかりづらい表情で睨まれて、アカギは愉しそうに喉を鳴らして笑う。
風呂場の壁に反響する低い笑い声を打ち消そうとするように、カイジは苦い顔で大きく舌打ちした。
終
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