帰ろう カイジが乙女




 赤木しげるはその時、珍しくうんざりしていた。

 それは、酔っぱらった連れーー伊藤開司が、今の今まで飲んでいた店の前でしゃがみ込み、
「ほら、帰るぞ……アカギ……」
 と、目線の高さにある猫の置物にしきりに話しかけているせいだった。





 子供の背丈ほどの大きさもあるその招き猫は、非常に目つきが悪かった。
 左手はちゃんとおいでおいでのポーズになっているし、かわいらしく小首まで傾げているというのに、そこいらのチンピラよりよっぽどキレているそのガン飛ばしのせいで、初見ではまず縁起物だと思われないという珍妙な置物だった。

 カイジに連れられてアカギが初めてこの居酒屋にやってきたときからずっと変わらず、その猫は入店する客を親の敵とばかりに睨み続けている。
『でもこの置物、お前に似てるだろ?』
 果たしてこんな剣呑な置物で福が招けるのか、と、アカギが率直な疑問を口にしたとき、カイジはそんなズレたことを言った。
 茶色と黒のブチが体のあちこちにあり、頭の上には大きな三角の耳がピンと立ち、『?』の形に曲げたしっぽを背後に隠しているその置物の、いったいどこが自分に似ているというのか、答えを聞いたらカイジを蹴り飛ばしてしまいそうな予感がしたのでアカギは訊かなかったが、カイジはアカギの心遣いに気づかなかったようだ。
『この居酒屋、結構繁盛してんだよ。お前も豪運の持ち主だしさ、福を招くのに、目つきの悪さは関係ねぇんだな』
 しみじみ言うカイジを、アカギは容赦なく蹴り飛ばした。




 ずっと前のそんなやりとりをアカギが思い出している間も、カイジはせっせと猫に話しかけ続けていた。

 ダラダラ飲み続けた挙げ句閉店時間を過ぎ、迷惑そうな顔の店主に締め出された直後、『支度中』の札がかかった扉の前にカイジはしゃがみ込んでしまい、そこから動かなくなった。
 今夜の酒量はさほど多くなく、飲んでいる最中はそこまで深酔いしている様子もなかったのに、店を出た途端こんなふうになってしまったカイジを、アカギは訝しんでいた。

「なぁ、帰ろうって。店も終わったぞ。追い出されたろ、オレたち」
「……」
「どうしてこんなとこでじっとしてんだよ。黙ってないでなんか喋れよ、アカギ」
「カイジさん」
 アカギが声をかけても、カイジは返事もなく猫に対峙し続けている。
 が、声に反応してその肩がわずかに動いたのを、アカギは見逃さなかった。

 つまり、聞こえていないのではなく、無視されている。
 もの言わぬ猫の置物を、本気で自分だと思い込んで話しかけているのではないということだ。

 ではなぜ、カイジはこんなおかしな真似をしているのか?
 なんとなくだが、アカギにはその答えが見え始めていた。

 何度話しかけようとも反応のない置物に、カイジは深くため息をつき、肩を落とす。
「なんでなにも言わねえんだよ……お前さては、帰りたくねえんだな? ったく、しょうがねえ奴だなあ」
 そう言いながら、カイジは気の抜けたような苦笑を漏らす。
 長い黒髪の落ちかかる猫背を眺めながら、アカギは自分に見えた答えを、はっきりと口にしてやった。
「帰りたくないのは、あんただろ」
 カイジの肩が、さっきよりも大きく動いた。

 帰りたくないけれど、素直に『帰りたくない』なんて言えないから蹲り、招き猫なんぞに話しかけている。酩酊したふりをして。
 そんな間抜けな手段をとってまでカイジが帰りたくない理由も、アカギにはわかりきっていた。
 明日がアカギの出て行く日だからだ。
 家に帰って眠ったが最後、次に起きたらカイジはもう、部屋にひとりきりになってしまうからだ。
 なんて馬鹿な男だとアカギは思う。家に帰らなくたって、眠らなくたって、いずれアカギはカイジの家を出て行くのに。

 カイジが黙りこくってしまったので、アカギはポケットからタバコを取り出し、咥えて火を点ける。
 それからゆっくりとカイジに近づき、同じようにして猫の前にしゃがみ込んだ。

 隣を見ると、カイジは声を殺し、静かに涙を流していた。
 咥えていたタバコを落としそうになったのを咄嗟に指で挟んで止めた後、アカギは呆れて目線を斜め上へ投げた。

 次に会うのは、一ヶ月後か半年後か。
 わからないけれども、とりあえずどちらかがくたばりさえしなければ、アカギは必ずまたカイジのもとを訪れる気でいた。
 だから、間違っても泣くほどのことでは決してないはずなのに、この男はなんだってこんなにメソメソしているんだ、とアカギは眉を顰める。

「……今生の別れでもあるまいし」
 アカギが思わず呟いた、その言葉はカイジの耳にちゃんと届いたらしく、涙で光る顔をアカギの方へ向け、キッと睨みつけてくる。
「……こっちが本物だってことは、わかってるみてえだな」
 そんなアカギの軽口を無視し、カイジは怒りに声を震わせて話し始める。
「また会えるから、悲しまなくていいって……? お前はどうしてそんなことが言えんだよ……? この冷血漢!!」
 そこでいったん言葉を切り、涙で濡れた顔を手で無造作に拭ってから、吐き捨てる。
「こっ、……恋人と、長いこと離れ離れになるんだぞっ……!? 悲しくないわけ、ないだろうがっ……!!」
 喋っているうちに興奮してきたらしく、カイジの頬に朱が差し、徐々に声が大きくなってくる。
「くそっ……! くそっ……!! オレだって、オレだってなぁっ……! これくらいのことで、ガキみてぇにメソメソしたくなんかねぇんだよっ……!!」
 でもダメなんだ、と、悔しそうな顔で唇を噛み、カイジはアカギを刺すように睨む。
「お前のせいだっ……! お前なんかに惚れちまったせいで、オレはこんな風になっちまったんだっ……! 責任取れっ……!!」
 ほとんど喚き散らすようにして投げつけられた、暴言のすべてをアカギは黙ったまま受け止めた。
 そして、しゃくり上げながら肩で息をしているカイジが落ち着くのを待って、穏やかに言う。
「わかった……じゃあ、オレも帰らない。あんたと一緒に、ずっとここにいることにするよ」
 カイジの目が、驚きに見開かれる。
 束の間、アカギの顔をまじまじ見ていたカイジだったが、それからすぐ、しょげたように目線を猫の方へ逸らした。
「それは、ダメだ……」
「……どうして?」
「わかってて言ってんだろ? 性格悪ぃな!」
 顔を見ないまま吠えつかれて、アカギは薄く笑う。

『ずっとここにいる』ということは、アカギが縛られるということだ。でも、アカギの生き様にこそ惚れ抜いているカイジが、そんなことを望むわけがない。
 自分の許を去るアカギを引き止める訳にはいかない。でもやっぱり恋人との別れは寂しい。
 そんな大きな矛盾を抱え、そこに酔いも合わさったことでどうしようもなくなって、カイジはまるでだだっ子のように居酒屋の前に居座って動こうとしなかったのだ。

 目を潤ませたまま、カイジはじっと猫を見つめている。
 涙はもう止まっていて、かなり落ち着いてきたようだ。
 その横顔には、もう既に羞恥と後悔がじんわり滲んでいたから、アカギは鼻で笑って言ってやる。
「ガキ」
「……う」
 るせぇ、と続くはずだった言葉は、アカギの口の中に飲み込まれた。
 カイジの肩に回した右腕の先、指に挟んだタバコから長くなりすぎた灰が落ちる頃、アカギはそっと唇を離し、鼻先の触れあう距離で囁いた。
「帰ろう。あんたと寝たくなった」
 すん、と鼻を啜ってから眉を寄せ、カイジは問い返す。
「……それは、純粋に寝るって意味か? それとも、」
「さぁ? 自分で確かめたら?」
 そうはぐらかしてアカギが立ち上がると、長いため息とともに、大きなだだっ子もようやく、なにかを吹っ切るように腰を上げた。



 

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