悪い虫 バカ話


「あ」

 飲み物の棚の前に立ち、隣で品出しをしているカイジを見て、佐原は声を上げた。
「虫刺され」
 なんの気なしに手を伸ばし、カイジの首筋に触れると、過剰なほどびくっとしたあと、ものすごい勢いでカイジが佐原を見る。
「な、なんだよっ……!」
「いや……だから、虫刺され。すっげぇ赤いの」
 食ってかかるような反応に気圧されつつ答えると、数秒の間をおいて、カイジはその痕を両手で覆い隠す。
 その顔がみるみるうちに赤くなっていくのを見て、佐原はピンときた。
 それが、虫刺されではないということに。

 が、あえて気づかぬふりをして、労しげに顔を顰めた。
「うわ、かゆそー……蚊ですか? ダニですか?」
「……わ、わかんねぇ」
「どこで食われたんです?」
「い……家、だろうな、多分……」
 性格的に嘘をつけないカイジは、つっかえながらも、佐原の質問に素直に答える。
 なんか面白いぞ、と思いながら、佐原は調子に乗って話を続けた。
「最近、暑くなってきましたからね〜。変な虫もたくさん、涌いてきますよね」
「……そうだな……」
 言葉短に答えるカイジに、佐原はますます愉快な気分になる。
 店のドアチャイムが鳴ったが、気にせず話し続けた。

「でも、そんだけでかい虫刺されができるってことは、カイジさんの血を吸った虫も、相当でかいってことになりますよね」
「……まぁ、そうかもな」
「そんだけでかいのが、部屋の中にいるわけでしょ。どんな虫なんですか?」
「……え」
「犯人? ……まぁ人じゃねえけどさ、見たことあるでしょ? そんだけでかいなら」
「いや、まあ……うーん……」
 生真面目に唸りながら、カイジはぽつぽつと話し出す。
「……すげぇでかい」
「そりゃわかってますって! 他には?」
「めちゃめちゃ強い。毒とか持ってる。たぶん」
「えっ! それ、カイジさん大丈夫なんですか」
「……ダメかも」
 もう毒回っちまってるかも、と呟いて、自分の発言に可笑しくなったのか、カイジは控えめに声を上げて笑う。
 珍しいその様子にぽかんとする佐原を差し置いて、カイジは愉しそうに話し続ける。
「悪い虫だよ、すげぇ悪い。凶暴だし凶悪。人の迷惑なんて考えずに噛みついてくる、なんせ虫だから」
「へ、へぇ〜」
 明らかに、痕をつけた相手のいないこの場で、悪口を言って鬱憤を晴らそうとしている。
 普段、相当やりこめられているのか、悪い顔をしてここぞとばかりに溜め込んでいたものを吐き出すカイジは、普段からは考えられないほど饒舌で、佐原は若干、引いた。
 一度、喋り始めたら火がついたのか、そんな佐原にはお構いなしにカイジは喋り続ける。
「叩いても殴っても死なねぇ。おまけに、虫のくせに頭が切れる。見た目はそこそこ綺麗で、そこがまた腹立つ。生意気だよな、虫のくせにーー」

「オレも詳しく聞きたいな、その虫の話」

 突然割って入ってきた、佐原のものではない低い声に、カイジの舌が凍りついた。
 佐原が声のした方を振り返ると、ひとりの男性客がそこに立っていた。
「あ、いらっしゃいませーー」
 その男は佐原もなんどか見たことのある、店の常連だった。
 若い見た目を裏切る白い髪と、一目でわかる常人ならざる雰囲気。
 強烈な印象を見る者に与えるその男は、急にビクビクと怯えたように縮こまるカイジの後ろ姿を眺めながら、ゆっくりと歩を進めてその隣に立つ。
 男は無表情だったが、明らかに怒りのオーラを放っているのが、佐原からもはっきりと見てとれた。
「あんたを噛んだ悪い虫がどんななのか、オレも知りたいな。……仕事終わったら教えてよ」
 カイジの肩にぽんと手を置き、男は絡みつくような声音で言う。
「家で、ゆっくり」

……家で? ゆっくり?
 カイジだけでなく佐原にも聞かせているような、はっきりとした男の言葉。
 それを聞いて涙目で青ざめるカイジの様子に、佐原は、まさか、と思いかけて、いやいや、と速攻でそれを打ち消す。
 ありえないって、だって男だぞ!? ないないないない、と内心冷や汗を垂れ流しつつ自分に言い聞かせている佐原を、男が鋭い目で見る。
 びく、と肩を揺らす佐原に、男は仄かに笑った。
「あんたも気になってるんだろ。どんな虫なのか」
「えっ!? ……いやまあ、はい」
 しどろもどろな佐原の様子に、男はひっそりと言う。
「……知らない方がいいことも、あると思うけど」
 そうですか、じゃあ知らなくていいですさようならとこの場から逃げ出したくなる佐原だったが、有無を言わさぬ男の眼光に足が竦む。
 自分と目を合わせようとしないふたりの店員を眺めながら、男はニヤリと笑った。

「まぁ……蚊じゃないことは確かだな。
 だってその虫、雄だから」

 意味深な一言に、カイジは泣きそうな顔で俯き、それを見て確信を得た佐原もまた、泣きたくなった。
 じゃあ、また後でねとカイジの肩を叩き、男は離れていった。
 
 長閑なドアチャイムを聞きながら、カイジと佐原は死にそうな顔で立ち尽くしていた。
 お互いの顔を見られないまま、流れる気まずい空気をなんとかしようと、佐原は気力を振り絞って口を開く。

「確かに……ものすごく狂暴そうで凶悪そうで、毒持ってそうですよね……」
 佐原の呟きに、カイジは赤くなって背中を丸める。

 一刻も早く忘れたい出来事に打ちのめされながら、次の客が入ってくるまで、ふたりはその場でひたすら、立ち尽くしていたのだった。





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