さくら 甘々 オリキャラが出張ってます
その女性は、しげるを見るなり目をまん丸にして、
「まあ、なんてかわいいんでしょう」
感動したように声を上げるのと同時に、腕を広げてしげるを抱きしめてきた。
突然の行動にしげるは目を見開いたが、女性の後ろで上着を脱いでいる男が、しげるに向かって申し訳なさそうに手刀を切るのを見て、おとなしく女性の腕の中におさまっておいた。
大人の女性の、やわらかい髪と体がしげるに密着し、桜の花に似た上品な香りが鼻を擽る。
「まるで、雪うさぎみたい。まだ、肌もつるつるなのね」
はしゃいだ様子でしげるの輪郭を撫でる細い指は、やはり桜の香りがして、ひんやりと冷たい。
間近でしげるの顔を見つめる女性の顔は、目も鼻も口も、顔のパーツがすべて小作りで、それらが細面の中にちんまりと行儀よく収まっており、どちらかといえば地味な部類に入る。
髪型や服装も、それに調和させるようにごく控えめで、ぱっと目を引く派手派手しさはないが、見れば見るほど好感を持てる、不思議な魅力が彼女にはあった。
「おい。あんまりガキ扱いしてやるなよ。そいつはウチで立派に代打ちを務めた、いっぱしの男だぞ」
男にたしなめられ、女性は「はあい」と笑って悪戯っぽく肩を竦める。
男の上着を受け取ってハンガーにかけると、キッチンに移動して飲み物の準備を始めた。
こまごまと動くほっそりした体を、しげるは黙って目で追っていた。
普通の女性なら、しげるのただならぬ雰囲気に怖じ気づいて『かわいらしい』などと夢にも思わないだろうが、しげるを見るなり抱きすくめ、あまつさえ『雪うさぎみたい』などと例えるあたり、流石は極道者の妻というべきだろうか。
女性は子どもが大好きらしく、男がしげるの話をしたら、目を輝かせて一度会ってみたいと言い出したそうだ。
事あるごとにしげるを連れてこいとねだられて、男もとうとう根負けしてしまったらしい。
すまなそうな顔で事情を話す男に、しげるはいやな顔ひとつせず頷いてみせた。
まだ二十代半ばと年若いのに、組の若頭まで上り詰めたその男は、代打ちを引き受けた当初、しげるに対してあまりいい顔をしていなかった。
十代の前半で任侠道の門を叩き、そこから誰に頼ることもなく自分の力だけでのし上がり、今の地位を築いた男にしてみれば、得体の知れないガキが我が物顔で自分の組を出入りするのが気に食わないのも当然と言えよう。
だが、先日の代打ちで、しげるの打つ麻雀を目の当たりにして心を改めたらしく、それまでの態度を詫びてきた。
といっても、男はもともと無口で、露骨な嫌がらせをされたわけでも、暴力を振るわれたわけでもないから、しげるにしてみれば詫びを入れられるようなことなど、なかったのだが。
しげるが今回、男の愛妻に会うのを快諾したのは、そんな男の生き方に、すこしだけ好感を覚えたからだ。
この男がともに生きることを選んだ女性とは、いったいどんな人物なのかと珍しく興味もそそられたのだが、実際会ってみると想像していたのとだいぶ違っていて、しげるはすこし、面食らった。
しげるにソファを勧めながら、男はしげるにだけ聞こえるように、声を潜めて言う。
「妙な女だろ。じつは俺も、手を焼いてるんだ」
「聞こえてるわよ」
銀の盆を持った女性に睨まれ、男は口端を下げてしげるに目配せした。
「ちょっと、どいてよ。わたしが赤木くんの隣に座るんだから」
邪険にされ、男が苦い顔でしげるの隣を開けると、女性はすぐさまソファに腰掛ける。
慣れた手つきで水割りを作って男に出し、しげるの方に向き直った。
「はい、赤木くんにはこれね」
コースターの上に出されたのは、赤と白のストライプのストローが刺さった、オレンジジュースだった。
どう反応したものかと考えていると、しげるより先に男が口を開いた。
「おい、お前、話聞いてたのかよ? こいつはガキじゃねえんだ、なんか酒気のあるもの出せよ」
垂れ目がちな目許をきっと吊り上げ、女性は言い返す。
「まだ若いのに、アルコールなんてダメに決まってるでしょう」
「たいしたことねえよ、酒くらい。俺だってこいつくらいの歳ごろにはもう、」
「あなたのおかしな基準を、他の人に持ち込まないでっていつも言ってるでしょ」
ぴしゃりと一刀両断され、男は渋い顔をして黙る。
「赤木くん、こういう男の口車に乗せられちゃダメよ。麻雀って、すごく頭を使うんでしょう? だったらなおさら、アルコールはまだやめておきなさい」
まるで母のような厳しさで言われ、しげるもなんとなく男同様にしんと黙り込み、なみなみ注がれたオレンジ色の液体を見下ろした。
それから、女性に促され、しげるはいろいろなことを話した。
今まで打ってきた博打や、その相手のこと。麻雀のこと。チキンランの時の話と、その後の顛末について。
水商売をやっていると男から聞いていて、正直、童女のように天真爛漫なこの人に務まるのだろうかと、しげるは怪しく思っていたが、実際話してみると女性はものすごく聞き上手で、相手から話を引き出すのもうまかった。
女性から尋ねられると、まるで魔法にでもかかったかのように、言葉がつるりと口から滑り出るような感じがするのだ。
口数もそう多くないしげるの話に、女性はいちいち大げさに相づちを打ち、驚いたり笑ったり顔を顰めたり、表情をくるくると動かした。
『昔の男といろいろあって、とうの昔に、子どもの産めない体になっちまってるんだ』
ここへ向かう車中で、男が話した女性の身の上話を、しげるは思い出していた。
化粧や髪型で幾ばくか若く見えるとはいえ、女性は明らかに男より年上だった。だが、それにしたって、どう年嵩に見積もっても三十代半ばくらいにしか見えない。
その若さで、男の口を濁させるほどの過去を、小さな背中に背負っているのだ。
しかし、十代の乙女のように無邪気なその様子からは、そんな深刻さを露ほども感じさせない。
だが、ヤクザ者の妻をやっているくらいなのだから、そういう事情をうまく隠すのにも長け、慣れきってしまったのかもしれない。
人は見かけだけでは判断できないという事実を再認識しながら、しげるはストローを咥え、甘さに顔を顰めそうになるのを堪えながらオレンジジュースを啜った。
しげるとばかり話す女性にほったらかしにされ、男は苦笑いしながらひとりでグラスを傾けている。
その表情はとてもくつろいでいて、普段組で見る、鋭く尖った刃物のような男の顔とは、まるで別人のようだった。
外では常にぴんと張り詰めている糸を、張り詰めすぎて切れてしまわぬよう、この人に会うことで緩めているのだろう。
そしてそれはたぶん、女性の方も同じなのだ。
ふたりの関係を、しげるはそう解釈した。
結局、しげると女性は一時間ほど話をした。
「悪かったな、こんな時間までつきあわせて」
時計を見ながら男がそう詫び、女性が立ち上がって電話機の方へと移動する。
「車を出させるわ」
しげるは女性の方を見て、首を横に振った。
「歩いて帰ります」
受話器を持ったまま、女性は瞬きする。
「この近くに、知人の家があるんです」
「近くって、どのくらい?」
「……歩いて三十分ほどの距離に」
しげるの返答に、女性は整った眉を跳ね上げた。
「ダメよ。こんな深夜にひとりで出歩くなんて、危ないわ」
「お前、本当に学習しねえな」
眉間に皺を寄せる男に、「だって」と女性が反論しかける。
また言い合いが始まらないうちに、しげるは口を挟んだ。
「そうですね。やっぱりお願いします、姐さん」
本当は、なんとなく歩いて帰りたい気分だったのたが、ここは女性の言うとおりにした方が丸く収まるだろうと判断しての発言だった。
『ほら見なさい』と言わんばかりに女性は胸を張り、男はますます渋い顔になって、諦めたように首を横に振る。
ほんのすこしだけ女性の方が優位な、このバランスがふたりにとってはちょうどいいのだろう。
男の意外な一面を垣間見ることができて、しげるは今日ここへ来たことをよかったと思った。
「今日は楽しかったわ。また、遊びに来てちょうだいね」
別れ際、上機嫌に女性は言い、しげるの手を軽く握った。
その指はやはり冷たく、しげるが黙ったまま頷くと、女性はとても嬉しそうに笑った。
見慣れたアパートの前で車を止めてもらう。
ドアを開けて降りると、運転席に座っている若中がしげるに軽く会釈をし、車はその場から離れていった。
しげるは目的の部屋のドアを見上げ、歩き出す。
体を動かすと、女性に抱きつかれたときに染みついてしまったのか、ほのかな桜の香りが、ふわりと体から漂い、鼻先を掠めた。
階段を上り、ドアをノックする。
しばらくすると、ドアの向こうから足音が近づいてきて、鍵を外す音がした。
「こんばんは、カイジさん」
ドアから顔を出した住人に、しげるは挨拶する。
「おー……どうした、急に」
上下スウェット姿にぼさぼさの髪、ぼんやりとしたその口調が、今の今まで寝ていたことを如実に物語っている。
「ちょっとね。あんたに会いたくなって」
あのふたりの安らいだ様子を見ていたら、しげるも自然とくつろげる場所にかえりたくなったのだ。
しげるの言葉に、カイジは欠伸しようと大きく開きかけた口のまま、固まった。
「ふーん……まぁ、上がれよ……」
すこしだけ頬を赤くして、ぼそぼそと言うカイジに、しげるは口許を撓めた。
聞き上手ではないし口下手で、気が利かなくて無愛想だけど、しげるがあのふたりを見ていて真っ先に思い浮かべたのが、この冴えない男の顔なのだ。
「メシは?」
「まだ。腹減った」
「夕飯の残りがあるけど」
「食う。ちょうだい」
そんな会話を交わしながら、靴を脱いで部屋に上がるとき、ふと思い立って、しげるはいつもより心もち、カイジに体を近寄せてみる。
自分の体から香る、明らかに女物の香水に気づいたカイジが、いったいどんな反応を見せるのか、興味をそそられたのだ。
部屋に持ち込まれた異質な香りに、カイジはすぐに気がついたらしく、くんくん鼻を鳴らして眉を寄せる。
犬みたいだな、と思いながら、その様子を黙って見守っていると、カイジはやがてしげるを見た。
「しげる、お前……」
不審げな顔のまま、ぐっと体を寄せてくるカイジに、しげるはわざと空とぼけるように、その目をじっと覗き込む。
すると、カイジはやにわに背中を丸め、しげるの首筋に顔を近づけて大きく息を吸いこんだ。
「なんかすげぇ、いいにおいがする……」
ぽつりと呟いて、うっとりしたように自分の香りを嗅ぐカイジに、しげるは軽く目を見開く。
「なんだろ……花のにおい? 桜、とか……?」
ぶつぶつ言いながら、まるで本物の犬みたいに、カイジはにおいを判別するのに集中する。
それから、しげるの首筋から顔を上げないまま、くぐもった声で訊いた。
「当たってるか?」
首筋に当たるカイジの鼻息をこそばゆく感じながら、しげるは自分の思惑が外れたことを悟った。
しげるとしては、香りそれ自体よりも、どこでこの香りをつけてきたかということに、もっと執着して欲しかったーー
つまりは、カイジにやきもちを焼いて欲しかったのだが。
なんだかがっかりした気持ちで、しげるが大きくため息をつくと、カイジが目線だけで、なんだよ、と問いかけてくる。
「カイジさんって、子どもだよね」
「……は?」
乾いた笑い混じりの、諦めきったようなしげるの言葉に、カイジは眉を顰める。
それから、近すぎる距離に今さら気がついたのか、慌ててしげるから離れようとした。
体に腕を伸ばすことでそれを阻み、しげるはさっき女性にされたみたいに、自分より大人であるカイジの体を、ぎゅっときつく抱きしめてやった。
終
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