宿題 カイジ視点



 ひさびさに、宿題が終わらない夢を見た。

 今よりずっと皺のすくない顔をしたおふくろに叱られ、夢の中のオレはそこでようやく、今日が八月最後の日だったことを思い出す。
 慌ててドリルを手に取るが、捲れども捲れども、出てくる頁は眩しいほどにまっさらだ。
 募る焦燥感の中、そういえば自由研究もまだだったと思い出してさらに絶望したところで、目が覚めた。

 汗びっしょりで目覚めると、しげるがベッドに座り、オレの顔を覗き込んでいた。
「おはよう。ものすごい魘されようだったね」
 他人事のような言い方だったが、よく見るとしげるの手はオレの体にかけられている。
 おそらく、揺り起こしてくれたのだろう。
「……ありがとな……」
 はー、と腹の底から息を吐き出しながら礼を言うと、「べつに礼言われるようなことなんてしてないけど」と、しげるは浅く笑った。

 どんな夢を見たのか、しげるは敢えて訊いてこない。
 魘されることの多いオレだが、いちばん頻度が多くて最悪なのは、過去に起因する悪夢だった。
 しげるにも一度乞われてその夢について話したことがあったが、それ以来、しげるはオレが魘されても、夢の内容を訊いてこなくなった。
 ポーカーフェイスと、賭場で見せる容赦のなさに隠れてわかり辛いが、実はしげるは優しいのだ。


 体を起こし、目を擦る。
 いつも見る悪夢に比べれば、今日のは平和的悪夢だと言えた。
 なにが面白いのか、猫のような目で相変わらずオレの顔を見続けるしげるに、なんとなく、そうしなくてはいけないような気持ちになって、ぼそぼそと話し出す。
「宿題が終わらない夢を見た」
 意外そうに、しげるが瞬きする。
「宿題?」
「……夏休みの」
 我ながら、頗るどうでもいいような話をしていることに途中で気がついて、自然、声がちいさくなる。
 だけどしげるは、可笑しそうに肩を震わせた。
「へんな夢」
 そう笑われて、芽生えたほのかな恥ずかしさを誤魔化すように、咳払いした。

 オレは昔から、こういう夢をときおり見る。
 宿題が終わらなかったり、単位が足りなかったり、テストの答えがぜんぜんわからなかったり。
 学校なんてとうの昔に卒業した今でさえ、そういう夢をたまに見る。
 夢の中の自分はもちろん、現実の自分がとっくに成人している大人なんだってことなど忘れていて、直面している危機に、ただただ焦っている。

 学生の頃の記憶を辿っても、まともに宿題を完成させた覚えは皆無に等しい。
 ただ、中途半端に真面目な自分の気質が、こういう夢を見せるのだろう。と、オレは勝手に推測していた。
 そう言うと、しげるに、
「年中夏休みみたいな生活してるからでしょ」
 と一刀両断され、あながち間違ってるとも言えずに、ううと唸った。

「お前はねえの? 宿題。もう夏休みだろ」
 話題を変えるため質問すると、
「さぁ。最近、学校行ってないから」
 悪びれもせずに、そう答える。
 宿題終わらなくて焦る夢なんて、こいつは一生見ねえんだろうな。
 などと思いながら、オレは大きく欠伸をする。
 いまいち、目が覚めきらない。寝直そうかな、と考えていると、しげるがオレの顔をじっと見つめながら、口を開いた。

「毎日が夏休みのカイジさんに、オレから宿題出してあげる」

……宿題?
 オレが眉を寄せるのと、しげるが軽く身を乗り出してきたのは、ほぼ同時だった。
 思わず見開いた目の前に、閉じられた白い瞼があって、重なっている唇の温度に、ただただオレは呆然としていた。
 誰も喋らなくなった部屋は静かで、街灯のせいで昼夜を間違えている蝉の、うるさく鳴く声がやたらと耳についた。


 ものの五秒ほどで、しげるはあっさりとオレから離れた。
「……って、ことだから」
 それだけ言って立ち上がると、おそらく過去最高の間抜け面を晒しているであろうオレを見下ろして、緩く口角を上げる。
「二学期始まる頃に、また来るから。その時までに、ちゃんと答え出しておいてね」
 そう言い置いて、しげるは部屋から出て行った。



 間抜け面でぼんやりし続けていたオレは、玄関のドアの閉まる音ではっと我に返った。
 今のはなんだったんだろう。未だ夢のつづきにいるのではなかろうか、と、指で唇に触れてみると、指にも唇にも、確かな感触があった。
 夢じゃない、と認識するのと同時に、燃えるように顔が熱くなる。

 クソガキが、すかしやがって!
『……って、ことだから』
 って、いったいどういうことなんだよ?
 行動が突飛すぎるだろ、その意図がぜんぜんわかんねえよ。
 それとも、オレなりに解釈しちまっていいってことなのか?
 世間一般の常識に照らして考えると、ああいう行為をする相手ってのは限られてるわけで、オレはあれを、そういう風に捉えちまっていいのか!?
 あいつが待ってる『答え』って、そういうことなのか!?

 思考がぐるぐるしてきて、オレは頭を抱える。
 それから、もうとっくに冴えてしまっている目で、携帯のカレンダーを確認した。

 学生の夏休みは、まだ始まったばかり。二学期が始まるまでは、あと一ヶ月以上もある。

 けれど、その期間を『長いな』と感じてしまう時点で、オレの中での答えはもう、決まっちまってるも同然なのだった。






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