狂い散り


「おい……なんのマネだ、これは……」


 一面に敷き詰められた小さな花びらが、地面を薄布のように覆っている。
 その上に自分を押し倒し、あまつさえ体に乗り上げて肩まで押さえつけているアカギを見上げ、カイジはそう言った。
 なんの前触れもなく屋外で押し倒されたことに対する怒りよりも、あまりにも突拍子なさすぎるアカギの行動への呆れが勝っているような声音だった。


 まだ昼間だというのに、アカギの肩越しに見上げる空は黄昏時のように薄暗く、そこから大粒の雨がぼたぼたと落ちてくる。
 覆い被さるアカギの体がちょうど雨よけになり、カイジにはほとんど雨は当たらない。
 が、地表で撥ねた泥は流石によけきれず、カイジの髪や顔や服や靴は、みるみるうちに茶色い飛沫でざらざらに汚れていった。

 朝の天気予報では、お日様マーク一個だけが燦然と輝き、降水確率はたったの十パーセントという予報だったのに、いっそ清々しいほどの大ハズレである。
 当然、そんな時に小さな公園へ遊びや花見に来ている人間など誰ひとり居らず、だからこそこんな屋外で白昼堂々押し倒されているにも関わらず、カイジも落ち着き払っていられるのだった。

「奇想天外すぎんだよ、お前の行動はいつも」
 ため息混じりの言葉になんて答えようか、アカギはすこし考えて、
「カイジさんが、寂しそうに見えたから」
 そう言うと、カイジの眉間にくっきりとした縦皺が寄った。

 雨足も風も強く、花嵐と呼べるような天候だが、それでも気温が春そのものの温暖さを保っているお陰で、雨に濡れてもさほど寒さを感じないのが救いだ。
 眼下でうねり乱れている黒髪に、絶えず落ちては貼りつく薄桃の花びらを見ながら、『狂い咲き』の対義語ってあるんだろうか、とアカギは考えていた。
 もしあるのだとすれば、今の状況を表現するのにこれほど適した言葉はない。

 ふたりで歩いている途中、急に降りだした雨に、とりあえず目に入った公園で雨宿りすることにした。
 遊具らしい遊具などほとんどない、本当に小さな公園で、雨に降られたふたりがあてにしていた、トイレなどの屋根付きの場所はどこにも見当たらなかった。
 代わりに、隅の方に一本だけ、場違いに植わっている桜の樹があって、やむを得ずその下に駆け込んだのだ。

 しかし、横殴りに吹きつける暴風のせいで、桜にしてはかなり小ぶりなその樹は、雨よけとしてはほんの慰め程度にしか機能しなかった。
 その下で、止まない雨をひたすらぼうっと眺めている内に、アカギが唐突にカイジを押し倒して、今の状況に至るのである。



 カイジはアカギの行動を『奇想天外』と表したが、そう思っているのはカイジだけで、当の本人に言わせれば、いついかなる時のどんな行動にも、歴とした理由が、ちゃんとあるのだった。

 今回の場合は、カイジの表情が原因だった。
 隣にいるカイジがひっきりなしに舞い落ちる桜を見つめ、死にゆく花を惜しむような顔をしていたからだ。

 カイジは完全に無意識だっただろうが、今はもういない人間を想うときの瞳と、似たような目をしていた。
 そういうときのカイジの瞳には、アカギがうつらない。ただひたすら、過去だけを見つめている。

 それが、アカギにとっては非常に面白くないのだ。
 だから、こんな行動に出た。

 ……と、いう流れを頭からきちんと説明するのも億劫だったので、
「カイジさんが、寂しそうに見えたから」
 という、当たっているようで当たっていないような、茫漠とした理由をこじつけたのだった。

 奇矯な行動は功を奏し、今、カイジの胡乱げな瞳には、ちゃんとアカギがうつっている。
 黒い眼をじっと覗き込めば、そこにうつる不機嫌な顔をした自分は、今にも眼下に晒されたカイジの喉笛を噛み切ろうとしているようで、我ながら、ヒトよりもむしろ猛獣や化け物に近いようにアカギには思われた。
 絶えず背中を叩く大粒の雨を、なぜかひどくぬるいものに感じる。

 アカギはときどき、カイジに対してものすごく狂暴な気持ちになる。
 それは理性を失うということではなく、寧ろいつも通りの、沈着な思考を保った状態での心の動きなのだが、だからこそ危険なのだとも言えた。

 カイジのなにもかもを壊してしまって、死人のことなんて忘れてしまうくらい、自分だけを憎んでくれればいいのにと思う。
 あるいは、このバカみたいなお人好しが、どこまで自分を許容してくれるのか、試してみたいとも思う。
 とにかく、傷つけたい。苦しめたい。

 こういう気持ちが、ほんの些細なことーー例えば、死や過去を見つめるカイジの瞳は絶対に自分をうつさない、などといったことが引き金になって、暴発する。
 それで、こんな土砂降りの屋外で、冷たい地面の上に押し倒してしまったりするのだ。

 我ながら歪んでいると、アカギも思う。だが、アカギがこんな風になってしまうのは、カイジに対してだけなのだ。



 ほんとうにままならない感情だと、軽くため息をつけば、「ため息つきてえのはこっちだっての」と、カイジに睨まれる。
 それでも、『どけよ』なんて怒鳴ったり暴れたりせず、大人しく押し倒されているのは、アカギの様子がいつもと違うことを敏感に察しているからなのだろう。
 気遣っているのだ。こんなことをさせる原因が、自分にあるとも知らないで。

 この歯痒さと今の状況を、さてどのように収拾つけようかと、やけに冷静な頭でアカギは思考する。
 そして、しばし考えた結果、カイジの喉笛を食い千切る代わりに、その喉元に顔を埋めた。

 カイジはぴくりと体を強張らせたが、逃げずにアカギのされるがままになっている。
 鎖骨と鎖骨の間にある、喉のくぼみに唇をつけ、強く吸い上げてから離れる。
 一呼吸おいて、桜の花弁のような痕が、そこにじんわりと浮かび上がった。


 普段なら、こんなすれすれの場所に痕などつけようものなら烈火のごとく怒り狂うカイジが、アカギの目をただ黙って見上げている。
 真意をはかるようなその目をアカギもじっと見返せば、やがてカイジが「お前はさ、」と喋り出した。
「お前はさ、一緒にいる相手が寂しそうだからって、誰にでもこんなことすんのかよ?」
 思いがけないことを訊かれ、アカギは軽く目を瞬く。
 なにを思って、そんなことを訊いてきたのだろうか。
 ひたすら自分を見つめるカイジの瞳からは、その心情を読み取れなかったが、とりあえずふざけているわけではなさそうだったので、アカギも茶化さずに答える。
「オレにこんなことさせるのは、あんた以外にいないよ」
 すると、カイジはアカギがしたように、何度か目を瞬いたあと、
「そうか」
 と呟き、矢庭にアカギの体に手をかけた。

 なにをするつもりなのか、とアカギがカイジの動向を窺っているうち、カイジは体を反転させてアカギの上にのしかかった。
 完全に形勢が逆転したが、さっきまでのカイジ同様、アカギも抵抗はしなかった。
 雨粒に打たれ、長い髪についた泥や花びらが、疎らに洗い流されていくのを眺めていると、カイジがぽつりと呟いた。

「……なら一生、オレだけにしとけよ。他の人間はこんなことされたら、ぜってえ迷惑するだろうから」

 それから、アカギの着ているシャツの襟元を寛げ、さっきされたことの仕返しをするように、喉元に顔を伏せる。
 肌を吸われる甘い痛みを感じながら、雨を落とす暗い空を見上げ、アカギは声を上げて笑い出したい気分になった。

 まるで、熱烈な愛の告白だ。
 アカギが狂暴に牙をむいても、カイジはそれを受け入れてくれると言っているのだ。
 それどころか、その狂気を独占したがってる。他の人間の迷惑なんてのは建前に過ぎないってことが、アカギにはちゃんとわかった。

 本当に、ままならないほど狂ってる。
 お互い。

 大粒の雨に頬を打たれながら、アカギはゆっくりと目を閉じる。
 晒された白い瞼も、余すところなく雨は塗らしていった。













 やがて、何事もなかったかのようにカイジが体を起こし、アカギもそれに続いた。
 立ち上がり、自分とアカギの姿を頭からつま先までしげしげと眺め、カイジは思いきり顔をしかめる。

 当然だが、ふたりの体はどこもかしこも泥まみれで、見るかげもないほど汚れている。
 小さな虫の死骸のような、薄汚れた桜の花びらが、カイジの髪にもアカギの髪にもたくさんくっついていて、雨に打たれたくらいでは、簡単に落ちそうにもなかった。

「ったく……誰が洗濯すると思ってんだよ」
 ぐちぐちと零すカイジに、
「あんたでしょ」
 間髪入れずにアカギが返す。

 じっとりとアカギを睨みつけてから、カイジは空を見上げる。
 アカギとカイジが雨宿りしている間に、少しずつではあるが、雨足は弱まりつつあった。
 通り雨だったらしい。この分なら、じきに上がるだろう。

 とめどなくはらはらと散っていく白い花を見ながら、カイジはぽつりと、
「来年は、ちゃんと花見に行くか」
 と、言った。
 まるで一人言のようなその言葉が、自分に向けられたものだと知っていながら、アカギは敢えて返事をせず、桜の幹に背を預け、ただ雨を眺める。
 返事などないことをわかりきっていたかのように、カイジもそれ以上、アカギになにも言わなかった。

 会話は途切れ、やがて雨が止んで日が差すまで、ふたりの耳には雨の落ちる音だけが、ずっと響いていた。






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