追想 モブ視点 ケモ耳しっぽ注意


 五歳のとき、隣町で迷子になってしまったことがある。

 夕飯時に放送されていた、幼い子どもがはじめてのおつかいをするというテレビ番組を観て、父や母が笑ったり泣いたりするのを、へんなの、と思っていた。
 テレビに映っている子たちはみんな判で押したように、途中で心細くなって号泣しながら引き返したり、おつかいを忘れて自分の欲しいお菓子を買ってしまったりと、失敗ばかりしているのに、その様子に目尻を下げっぱなしの父や母のことが理解できなかったのだ。

 私ならきっと、もっと上手におつかいできるのに。
 根拠のない自信に突き動かされるまま、私は翌日、母に「はじめてのおつかい」をせがんだけれど、「あんたにはまだ無理よ」と、取り合ってもらえなかった。
 ムッとした私はお小遣いの入ったポシェットを引っ掴むと、母の目を盗み、こっそり家を抜け出したのだ。

 母とほぼ毎日買い物に行く近所のスーパーなら、目を瞑ってでも歩いて行ける距離にあるのだが、それじゃあ簡単すぎて「はじめてのおつかい」に相応しくないと思った私は、何度か行ったことのある、隣町の和菓子屋さんを目的地に定めた。
 そこで母の大好きなお饅頭を買ってきて、びっくりさせてやろうと思ったのだ。

 かくして、私の「はじめてのおつかい」がスタートした。
 初めこそ、アニメの主題歌など口ずさみながら意気揚々と歩いていたが、周りの景色が徐々に見慣れないものに移り変わっていくにつれ、段々と心細くなってきた。
 家を出る前はあんなに自信に満ち溢れていたのに、実際に歩く道は記憶の中にある風景と何処かちょっとずつ違っていて、足元がじわじわと崩れ落ちていくような気がした。
 気が強かった私は、それでも涙をこらえてズンズン歩いていたが、まったく見たことのない住宅街にさしかかると、そこで完全に足が止まってしまった。
 いったいどのくらい歩いてきたのか、いつの間にか、初夏の日が傾きかけていた。
 引き返すべきかと後ろを振り返るも、どこをどう曲がって歩いてきたのか、五歳児の頭でははっきりと思い出すことができなかった。

 ふいに笑い声が聞こえてきて、ハッと前を向く。
 見たことのない制服に身を包んだ下校途中の小学生の集団が、大声でなにか話しながら、こちらに向かって歩いてきた。
 とっさに唇を噛み、平気な顔を取り繕う私を、子どもたちはすれ違いざまちらりと一瞥しただけで、すぐに自分たちの会話に戻っていった。

 遠ざかる楽しそうな笑い声を背中越しに聞きながら、私の中で、ぷつりと何かが千切れる音がした。
 あとはもう、テレビの中の子どもたちと同じように、私は大声で母を呼びながら泣き叫ぶしかなかった。
 ただひとつ、あの子たちと違うのは、テレビカメラを巧妙に隠しながら着いてきてくれる通行人など、どこにもいなかったということだ。
 そこは人通りの少ない道で、いくら泣いても叫んでも、誰も助けに来てはくれなかった。
 それでも、知らない場所で立ち止まっているのはもっと恐ろしい気がして、惰性のように足を前へと動かした。

 身も世もなく泣きながら歩き、やがて声さえ枯れてきた頃、潤んだ目の端にハッとするほど鮮やかな赤色が映って、私は足を止めた。
 それは、小さな神社の鳥居だった。石の台座に据えつけられた真っ白な狐の像が、私を見下ろしている。
 ーーここは、神さまのおうちなんだよ。
 弟の七五三参りに行ったとき、父がそう教えてくれたのを、私は思い出していた。
 そのとき行ったのは私の住む街の神社で、鳥居もここよりずっと大きくて立派だったけれども、私は縋るものを求めるように、小さな鳥居を潜ったのだった。


 小ぢんまりとした境内には誰もいなくて、水を打ったようにしんとしていた。
 私はよろよろと石段をのぼり、賽銭箱の前に立った。
 震える手で首から下げたポシェットを開け、お小遣いの五百円玉を投げ入れる。
 でも、それじゃ足りないような気がしてきて、私はちょっと迷ってから、ポシェットの口を大きく開いて賽銭箱の上で逆さにして振った。
 ジャラジャラと音をたて、私の全財産が木箱に飲み込まれたのを確認してから、七五三のときの記憶を必死に辿り、ガランガランと大きく鐘を鳴らして手を合わせる。
 −−かみさま、どうか、わたしをおうちにかえらせてください。おねがいします。
 ギュッと目を閉じて一心不乱に祈っていると、涼しい風が、ふっと私を撫でるように吹き過ぎていった。


「……なぁ」
 突然、人の声がして、びっくりして目を開ける。
 辺りを見回すと、すこし離れたところにある大きな樹の下に、黒くて長い髪をした、背の高い人が立っていた。
 さっきまで人っ子ひとりいなかったはずなのに、いつからそこにいたんだろう。
 久しぶりに大人の姿を見て安堵した私は、不用心にも、見ず知らずのその人に、ふらふらと近づいていった。

 その人を間近で見て、私はすこしの違和感を覚えた。
 きつく吊った大きな目と、きりりとした眉が印象的なその人は、どう見たって人間にしか見えないのに、どこか普通の人間とは異質な雰囲気を纏っていた。
 得体の知れない赤の他人ではあるけれども、食い入るように顔を見つめる私の視線から逃れようとするように、大きな目をウロウロと泳がせている様子から、なんとなく悪い人ではなさそうだと思えた。
「ひょっとして、迷子になっちまったのか」
 その人が口を開いて、ぼそぼそと尋ねてくる。
 低くてやわらかいその声に、私は目を丸くした。
「……どうした?」
 私の様子がおかしいことに気付いたのか、その人はやや背を屈め、私に目線を合わせてくれた。
 真っ黒な瞳に映り込む、泣き腫らした自分の顔を見て、多少落ち着きを取り戻した私は、泣きすぎて掠れた声で、その人に答えた。
「かみのけが長いから、おんなのひとだと思った……」
 その人は目をぱちぱちと瞬いたあと、ぷっと吹き出した。
 笑うと、他人に打ち解けなさそうだった印象が、ぐっと親しみやすいものに変わる。
 背を丸めて肩を揺らしながら、可笑しそうに笑い続ける様子に首を傾げていると、その人は笑いすぎて滲んだ涙を指で拭いながら言った。
「……悪ぃ。ずうっと昔に、似たようなこと言われたなぁって、思い出して」
 そのとき、男の人の傍らに立っている樹の上から、ガサリと音がした。
 弾かれたように視線を上げ、私は目を見開いた。

 真っ白な髪と肌を持つ、とてもきれいな男の人が、緑の葉の生い茂る木の枝に腰かけていたからだ。
 長い髪の人もどこか人間離れした雰囲気を醸し出しているけれど、この白い人はその比じゃない。
 絹糸よりも艶やかな純白の髪、こよなく涼やかな面立ち、すらりとしなやかな背格好。
 一目見たら忘れられないほど、すべてが繊細に整っていた。
 さらに異様なことに、その頭上には三角に尖った大きな白い耳が二つついていて、その人の後ろには、ふさふさの白いしっぽが揺れていた。
 しかも、一本だけじゃない。いち、にい……、心の中で指折り数えてみると、しっぽは全部で六本あった。
 図鑑の中で見たことのある、ホッキョクギツネの耳やしっぽに似ているけれど、それよりもずうっときれいで、雲よりも雪よりも真っ白に光り輝いていた。

 その人は椿のような赤い色のシャツに、黒いズボンを穿いていた。
 真っ赤な夕日に染まるその姿が、一枚の絵のように美しくて、思わずじっと見つめていると、
「お前、こいつのこと見えるのか?」
 長い髪の人が、びっくりした顔で尋ねてきた。
 なぜ彼が驚いているのかわからなかったけど、私はとりあえず頷いた。
「すごくきれい……」
 ため息と一緒に呟くと、長い髪の人は、なぜかとても嬉しそうな顔をした。
「だろ? オレの自慢の……、」
 ハッとした顔で言葉を飲み込んで、その人は慌てて咳払いする。
 すると、狐の人がふわりと樹上から飛び降り、音もなく地面に着地した。
「今、なんか言いかけたよね」
 長い髪の人に詰め寄る狐の人の、白い耳がピンと立っているのを見て、それが飾りなどではなく、正真正銘、本物の耳であることがわかった。

「さぁな」と言ってそっぽを向く長い髪の人と、ふさふさのしっぽを揺らしながらその顔を覗き込もうとする狐の人。
 ふたりがとっても仲良しだってことが、この短いやり取りだけでもすごく伝わってきて、私は急に、自分の家族にとても会いたくなってしまった。
 自分が迷子で、ここが見知らぬ土地の見知らぬ神社であることを思い出し、泣き出しそうに顔を歪める私に、長い髪の人は慌てた顔をした。
「なぁ。この子、家に送り届けてやれねぇか」
 長い髪の人が私を指さして言うと、狐の人は細い眉を寄せ、私のことをじっと見下ろす。
「……俺の仕事は、慈善事業じゃねえんだが」
 低い声で言う狐の人を、「似たようなもんだろうが」「そう冷たいこと言うなって」などと、黒い髪の人が宥めている。

 間近で見る狐の人は、思わず後ずさりしそうになるほど、迫力のある美丈夫だった。
 着ている椿色のシャツには、よく見るとヘンテコな模様がたくさん散らばっていたけれど、磨かれた珠のような白い肌に、華やかな赤いシャツはよく似合っていた。
 一分の隙もなく伶俐に整った面立ちは、長い髪の人より、すこしだけ年嵩のように見えた。

 無表情に私を見下ろす鋭利な瞳は、燃えさかる炎のような色をしていて、あまりの美しさに少し怖くなって、私はぶるぶると身震いした。
「お前……人の子をビビらすなよ……」
 長い髪の人が呆れたように言うと、狐の人は心外そうに耳をぴくりと動かし、「べつに、脅かしてるわけじゃねぇ」と呟いた。
 バツの悪そうな渋面が、ちょっとだけ人間味のあるものに思えてきて、私はちょっとホッとする。
「……ったく、何処から迷い込んで来たんだか」
 ぶつくさ言いながら、狐の人はシャツの懐から畳んだ扇子を取り出すと、白い腕を真っ直ぐに伸ばし、その先をひたと私に向けた。
「もう、迷子になるんじゃねえぞ」
 長い髪の人が、すこし笑って私に声をかける。
 私がなにか言い返すより先に、狐の人が、体の前でパッと扇子を開いた。

 沈みゆく夕陽を照り返して輝く、黄金色の扇子。
 真っ赤な紅葉がたくさん描かれているそれを、狐の人は手許でしなやかに翻す。
 すると不思議なことに、扇子の中の小さな紅葉も、その複雑な動きに合わせ、ひらひらと舞った。
 この上なく優美な仕草にぼうっと見惚れていると、狐の人は軽く目を伏せ、私の頭の上を、ふわりと撫でるようにひと煽ぎした。

 刹那、息もできないほどの突風と、無数の紅葉が私の体を包み込む。
 なにが起こったかわからない。混乱の中ぎゅっと目を瞑り、吹き飛ばされないよう必死で足を踏ん張っていると、やがて、風はゆっくりと凪いでいった。



 こわごわと目を開けると、眼前に見慣れた風景が広がっていた。
 辺りはすでに真っ暗で、家の前に止まっているパトカーのランプが、赤い光を闇に投げかけている。
 夢でも見ているような心地で、私はふらふらと家に近づき、深刻な顔で警官となにやら話し込んでいる母に、「おかあさん」と呼びかけた。

 その瞬間の、母の顔は忘れられない。
 憔悴しきった顔に浮かぶ、驚きと安堵。
 息が止まりそうなくらいきつく抱きしめられ、「無事でよかった」と泣き崩れる母の声を聞き、私はようやく、家に帰って来れたのだということを実感したのだった。
 母の腕の中、安堵のあまり体がぐにゃぐにゃになったところで、ふと違和感を覚え、頭に手をやる。
 髪に、季節外れの真っ赤な紅葉が一枚、引っかかっていたのだった。


 あれから十年以上経つが、あの時の紅葉は押し花にして、お守りとして今でも大切に取っておいてある。
 あの日、私が体験した不思議な出来事は、家族にも友達にも、誰にも話したことがない。
 話したってどうせ信じてもらえないだろうし、なんとなく、私だけの秘密にしておきたかったからだ。

 あの事件があって以来、私は一年に一度、紅葉の季節に隣町の神社へ足を運ぶ。
 あのふたりに会えることはもう二度とないだろうけれど、それでも私はお賽銭を投げて手を合わせ、あの時はありがとうございました、と心の中で伝えるのだ。

 長い黒髪のやさしい神さまと、怖いほど綺麗な狐の神さまに。






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