腐りかけ


 赤木が路地に足を踏み入れたとき、その男は擦れた子どものような目で、月を見上げていた。
「よぉ。久しぶりだな、カイジ」
 赤木が声をかけると、男はチラリと赤木の方を見て、頭を下げるような仕草をする。
 動作がおざなりなのは、体をうまく動かせない所為か。
 見るからに、カイジの体はボロボロだった。着ているTシャツもジーンズもところどころ大きく破れ、泥や血の跡で汚れている。
 顔や腕には、赤や青のアザが数えきれないほどあって、まるで肌の上に満開の花が咲き誇っているかのようだった。グロテスクな大輪の徒花。

 赤木が近づくと、カイジは顔をあげて赤木を見る。
 よく涙を零す大きな瞳が、今夜は乾いていた。男の両頬には、乾いた白っぽい筋がいくつも見て取れる。
 涙も枯れ果てた、といったところか。ひどく草臥れ、光を失った目をしている。

 いつもなら、赤木の姿を認めたら、それなりに姿勢を正すはずのカイジだが、今は血の滲む唇にタバコを挟んだまま、冷たいビルの壁に寄りかかっていた。
 よく見ると、咥えているタバコからは煙が上がっていない。それでも極端に短いところを見ると、シケモクでも拾って吸おうとしたが、火が点かなかったのかもしれない。

 用を成さないタバコを吐き捨てることもせず、赤木を前にしてもやさぐれたように突っ立っているカイジ。
 最後に顔を見たのが三ヶ月前。それから今日までの間、赤木は男の姿を見かけなかった。

 いったいなにがあったのやら。訊いてもまともな答えなど返ってくるはずもないということは、暗い目を見れば明らかだった。
 相当、痛い目に遭わされたようだ。体はもちろんのこと、精神的にもかなり参っているのだろう。
 また、人を信じて裏切られでもしたのかもしれない。
 とにもかくにもこの男は甘い。よくもまあ、こんな甘ちゃんが裏社会を生き抜いて来られたもんだと赤木は時折呆れることもあるが、己には縁のないその素質を、好ましく思うのもまた事実だった。

 赤木より上背のあるカイジだが、だらしなく壁に背を預けているせいで、今は赤木より目線が下にある。
 赤木はひょいと背を屈め、その顔を覗き込むように見る。
 男の吐息から、つんと饐えた臭いがする。吐瀉物の臭いだ。嘔吐したあと、口を濯いでいないのだろう。

 至近距離で赤木に見られても、カイジは微動だにしない。
 一般人であれば不興を買い兼ねない不遜な態度だが、赤木は逆に、初めて目にする捨て鉢な男の様子を面白がっていた。
 どこまでやったら反応が返ってくるだろうか。
 試すようなつもりで、赤木は半開きの唇からタバコを抜き取って捨て、唇を重ねた。

 酸味と甘味と苦味が混ざったような、世にも最悪な味の口づけだった。
 どこか遠くから聞こえるパトカーのサイレンが、淡い夜の空気に溶けるように響いている。

 赤木が唇を離すと、カイジが掠れた声でぼそりと呟いた。
「……よくそんなことできますね。こんな汚ねぇ奴に」
 他人事のような口ぶりで吐き捨てる。淡々とした、抑揚のない声。
 赤木に触れられただけで慌てたり真っ赤になったりするいつものカイジとは、まるで別人のようだった。
 どこまでもやさぐれた態度。しかし、ようやく反応が返ってきたことで、赤木は口端をつり上げる。
「肉だって果物だって、腐りかけがいちばんうまいんだ」
「……なにが言いてぇんだよ……」
 すかさずツッコミが入り、赤木は笑みを深くする。
「調子、出てきたじゃねぇか」
 カイジは舌打ちし、バツが悪そうに目を逸らす。
 ぶっきらぼうな仕草だが、赤木とのやり取りを通して、この短い間にカイジが持ち直そうとしていることは明らかだった。
 この打たれ強さもまた、赤木の気に入っているカイジの美点だった。

 なぁカイジ、腐るなよ。

 口には出さず、心中で赤木はカイジに語りかける。

 腐りかけが、いちばんうまいんだ。
 どんなに腐りそうになったって、そこから自力で持ち直す、お前の馬鹿みてぇな強さを見るのが、俺は好きなんだから。
 絶対に、腐っちまうんじゃねえぞ。

 すると、見計らったかのようなタイミングで、カイジが何もかも吹き飛ばすような、盛大なくしゃみをした。
 顰め面で鼻を啜るカイジに破顔し、赤木は自分の白いジャケットを、汚れた男の肩に頓着なくかけてやるのだった。





 


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