爪切り

 シャワーを浴びたカイジが居間に戻ると、赤木は床に座り、背を丸めてうつむいていた。
 体の具合でも悪いのかと、一瞬、胸がざわついたが、近くに寄ると、卓袱台で隠れていた赤木の手許が見え、カイジはホッとした。
 足の爪を切っているのだ。
 ぱちん、ぱちん、と乾いた音を聞きながら、カイジも床に座る。

 赤木が足の爪を切るのを初めて見たカイジは、物珍しさでなんとなく、その様子をじっと観察するように見てしまう。

 赤木は眉間に軽く皺を寄せ、無表情で目線を足の爪先に向けている。
 爪切りを動かす長い指と、白い足の爪先。
 かたちの良い二十指の爪のひとつひとつを見るにつけ、こんな末端の造作さえ整っている赤木しげるという存在に、カイジは舌を巻きたい気分になる。

 物心ついた頃から漂泊の日々を送っていたという話がにわかに信じがたいほど、赤木の手足はすんなりときれいだった。
 惚れた欲目を抜きにしたって、壮年の男の手足だとは思えない。
 ただ背を丸めて足の爪を切っている。そんな姿でさえ、一部の隙もなく様になっている。
 伏し目がちの双眸。感情を感じさせない赤木の表情は、手牌を見るときのそれに少し似ていて、じっと見つめているうち、カイジの心にうっすら影がさしてくる。

 遠い人だと思う。
 この狭い部屋で爪を切っていても、自分と同じ湯上がりの香りがしていても、赤木のために用意した寝巻きを着ていても。
 特別な関係である証は数え上げればきりがないというのに、ふとした時に『赤木しげる』という奇跡のような存在との距離を、嫌というほどカイジは実感させられるのだ。

 走っても走っても、月との距離は変わらない。
 ふたりの関係の名称が知人から恋人に変わり、月の見え方が多少変わったとしても、それは単に、自分の位置がほんの少し動いたに過ぎないのだ。


「カイジ」

 つい物思いに耽っていたカイジは、低い声で名前を呼ばれてハッとする。

 いつの間にかじっと見つめられていたことに気づいて焦るカイジに、赤木はニヤリと口端をつりあげる。

「おい、足出せ、足」
「……は?」
「ついでだ。切ってやるよ」

 一瞬、固まってから、カイジは激しくたじろいだ。

「き、切ってやるって……、オレの、爪……?」
 他になにがあるんだよ、と言って可笑しそうに肩を揺らす赤木に、カイジは思わず後ずさった。
 しかし、
「こら、逃げるな」
 嗜められ、伸びてきた腕に足を捕まえられて、カイジはあっさり観念させられてしまう。
「あの、汚いっすから……!」
「シャワー浴びてきたとこだろうが」
 まごつくカイジの言葉を一蹴して、赤木はカイジの足を掌にひょいと乗せてしまう。
 筋張った白い手に自分の足が乗っているのを見て、カイジは思わず目を逸らした。

 こうなっては最早、逃げることなど叶わない。
 大人しくなったカイジに気を良くしたかのように、赤木は低く喉を鳴らし、爪切りをカイジの親指の爪にあてた。

 ぱちん、ぱちん、と小気味良い音とともに、爪を切られているのを感じながら、カイジはなぜだか泣きたくなってきた。
 月みたいに遠い人に、こんなことをしてもらうのが恥ずかしくて、いたたまれなくて、消えてしまいたいのだ。
 赤木の方を見ることができず、ひたすらモジモジしているカイジに、やがて赤木が口を開いた。

「どうせまた、くだらねえこと考えてんだろ」

 ぱちん、ぱちん。
 ちいさな音に被せるように呟かれた言葉。
 ハッとしてカイジが赤木の方を見ると、待ち受けていたかのように鋭い視線に絡め取られる。

「考えられなくしてやろうか」

 不敵な笑みを浮かべながら、赤木はカイジの足を乗せている掌を、ゆっくりと爪先の方へ移動させる。

「俺のこと以外」

 そのまま、カイジの足の指と指の間に、白くまっすぐな手指を一本一本、焦らすように潜り込ませていく。
 意味深な仕草と、普段、人には触られることのない箇所を割り開かれ、撫でさすられる感覚。
 くすぐったさの内に、体が勝手に官能を拾いあげて、下腹の底に火が点く。
 恋人繋ぎのように絡み合う、指と指。

 悪戯っぽい笑みを浮かべながらも、切れ長の目は笑っていない。
 さっきからずっと赤木のことしか考えてなかったんだけれども、きっと赤木が言いたいのはそういうことじゃないってことはカイジにもわかったので、とりあえず項垂れて「……すんません」と謝る。

 ただ、赤くなった顔を見られまいと背けていたカイジには、赤木の笑みが満足そうなものに変化したことも、恭しく爪先にキスされる瞬間も、見ることができなかった。






[*前へ][次へ#]

19/37ページ

[戻る]