一緒に・4


 ぷつり。

 見えない糸が断ち切られるような気配がして、少年は弾かれたように顔を上げた。
 その場で立ち止まり、全身の神経を集中させる。
 いつ、どこにいても感じることのできた馴染みのある気配が、根本から断ち切られ、完全に途絶えていた。

 ーーカイジさん。

 その名が脳裏に閃くのと同時に、少年は弾丸のように駆け出していた。
 己の神域である、この街の神社へ。


 近ごろ、カイジの様子がおかしいことに、少年は気がついてはいた。
 特に、空き地で花火をした、あの夜。
 なんの前触れもなく零れ落ちるカイジの涙を、少年は鮮明に覚えている。

 あの夜以降、カイジはやけに明るく少年に接するようになった。
 そのくせ、なにがあったか尋ねることすら許さないかのように、ぎこちなく顔を背け、話題を逸らし、深刻な話題を徹底的に避けようとしていた。

 あの様子では、詰問したとてマトモな答えは返ってこないだろう。
 だから、少年は本人に悟られぬよう、カイジに式神を憑けたのだ。

 妖の気配はしなかったが、カイジは一度、化け猫に喰われかけたことのある人間だ。
 今回も、なにかタチの悪いものに狙われている可能性は、充分に考えられる。

 少年の憑けた式神は、下等の妖なら単体で撃退できるほど、強い神力を込めたものだった。
 近ごろのカイジの、尋常ならざる様子から、事態の深刻さを汲み取って、少年はその式神を憑けたのだ。

 それなのに、カイジはあっさりと行方をくらませた。
 矢のように駆けながら、少年は歯を食いしばる。

 ぷつりと途絶えた糸の先から微かに感じ取れるのは、芳しい花の香の名残り。
 妖のものではないその気配の正体を、少年は嫌というほど知っていた。

 射干玉の夜の中、疾風の速さで駆ける少年の姿が、眩いばかりの光を放ち、空気に溶ける。
 次に像を結んだ姿は、白い狐に変化していた。
 しなやかな四肢で風を切り、白銀の毛並みを靡かせ、神獣は夜の街を飛ぶように駆ける。
 街を歩く人々の中に、その姿を視認できる者はおらず、ただ夜闇を裂くような突風が、傍を通り過ぎたとだけ感じるのだった。




 石段を駆け上がり、拝殿の御鏡の裏、神しか立ち入ることのできない領域へと駆け込む。
 その瞬間、少年は獣から人型へーーそれも、青年の姿へと変化した。

 御鏡の裏は、白い岩に囲まれた不思議な祠に繋がっている。
 深雪の狩衣と、深緋の指貫。比類なく優雅な衣装が乱れるのも構わずに、青年は祠の奥にある祭壇に駆け寄り、黄金の雲型台の上に置かれた碧い鏡を掴み取った。

 怒りに任せて叩き割りたくなる衝動を堪え、鏡の面に指先で触れる。
 白い指が触れた瞬間、鏡面は水面のような波紋を描いた。
 青年は淀みなく指を滑らせ、複雑な模様にも見える文字を、さらさらと鏡面に描く。

 すると、鏡が太陽の如き強い光を放ち、広い部屋の隅々までを照らし出した。
 普通の人間なら目を灼かれてしまうであろうその光を、青年は鋭い瞳で睨みつける。

 ーーそこな稲荷神よ

 荘厳な鐘のような声が、空気を揺るがしながら響き渡る。
 
 ーー誰の赦しあって、天門を開くのか
 地上送りの間の天界との交信は、神無月の外は、禁じられている筈

 まるで経でも読むかのように平らかな声を遮り、青年が口を開く。

「あの人を、何処へやった……」

 低い声には、隠しきれない怒りが滲んでいた。
 白い獣耳は真っ直ぐに立ち、三本の尾の白い毛が、空気を孕んだようにぶわりと逆立っている。
 赤い瞳が、燃え盛る炎のように炯々と光っていた。

 ーー気を鎮めよ、若輩者
  守護する街を、水底に沈める心算か

 感情の消え失せた声が、青年を諫める。
 事実、社の中にいる青年の耳にさえ、激しい雷雨と強風の唸る音が届いていた。
 稲荷神である青年の激しい怒りが、この街の天候を急変させたのだ。

 ーー人間の信仰あってこそ、我々は存在し得る
 よもやその事、忘れたわけではあるまいな

 ゆっくりと紡がれる声に、青年の瞳がすこしだけ理性を取り戻す。

 青年はカイジと暮らすうち、取るに足らない存在だと思っていた人間に対する見方を、多少なりと変化させていた。
 以前のように、死人が天国と地獄のどちらに行くかを賭け事のタネにするような、残酷なことはもうしないだろう。

 ただし、それはカイジあっての話だ。
 カイジの安否が不明な今、正直、この街が水底に沈もうと、カイジ以外の人間がどうなろうと、青年にはどうだって良かった。
 カイジさえ無事でいればいい。だけど、本当にそうなったらカイジは泣くかもしれないと思ったから、青年は踏み止まったのだ。

 そうは言っても、依然として柳眉を逆立てたまま、いつ鏡の向こうへ飛びかかってきてもおかしくない剣呑さを隠そうともしない青年に、声はさらに告げる。

 ーー天帝は、お前をお赦しになった
 だから、枷を排除した
 それだけの事だ

『排除』という言葉に、青年はふたたび怒気を噴出させる。

 地上送りになって三年。
 青年はカイジとの暮らしで人間のことを学び、神としての力を着実に蓄えてきた。
 だから、天界に戻ることを許された。
 そのために、枷ーーカイジを排除したと、声は言っているのだ。

 声の主は、青年がカイジに抱いている気持ちに気づいたのだろう。
 カイジがいる限り、青年は天界に戻らないと踏んだ。
 だからカイジを『枷』などと呼び、こんな暴挙に出たのだ。
 青年はそう確信していた。

 人間の信仰なくしては存在できない神々は、基本的に人間を愛し、慈悲深く接するもの。
 そういった存在が、カイジに対しては『枷』『排除』などという言葉を使う。

 そのことに対して、青年は強い違和感を覚える。
 必要以上に人間にーーカイジに心を傾け過ぎたことへの、これは当てつけなのかもしれない。

「オレは、戻る気などない」

 怒りの篭った揺るぎない声で、青年は否定する。
 クズで面倒くさがりで無愛想。だけどお人好しで、呆れるほどやさしい想い人と、この地上で、ずっと一緒に暮らしていく。

 なにがあろうと、誰の不興を買おうと、青年の心は決まっていた。
 青年にとっての『枷』はカイジではなく、天界の方だった。

「あの人を、返せ」

 また、ゆらりと瞳の炎を揺らめかせる青年に、鏡の向こう側は暫し沈黙する。
 ややあって、声は重々しくこう告げた。

 ーーあの者の身柄は、冥界の王に託した
 返して欲しくば、自力で奪い返しに行くがよい

 それを聞いた瞬間、青年は鏡を力いっぱい床に叩き付けた。
 派手な音をたて、粉微塵になった破片が床に飛び散ったが、青年は振り向きもせず駆け出していた。
 
 外に走り出て、玉砂利を踏み、社の裏へと急ぐ。
 やがて、鬱蒼とした木々のむこう、紫陽花の低木に囲まれた、ちいさな池が見えてきた。

 青年は全速力で駆け、その勢いのまま跳躍し、月の映る水面に飛び込む。


 見た目は何の変哲もない、底が映るほど浅い池。
 しかし飛び込んだ青年の体は、暗い水の中をどこまでも深く沈んでいく。


 鏡が天界に通じる門なら、水面は冥界に通じる門だ。

 ーー必ず助ける。待っていて、カイジさん。

 青年は強い瞳で、水底を睨むのだった。
 


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