一緒に・3
少年と花火をした夜以降も、カイジのあの夢は、ずっと続いていた。
それでも、カイジは少年の前では、努めて明るく振舞った。
明らかに様子のおかしい同居人に、少年がずっと物言いたげな視線を送っていることは知っていた。
だが、カイジはそれに気づかないフリをして、真面目な話を徹底的に避け、なにかを問う余地すら与えないでいた。
ひねくれてはいるが根はやさしい少年は、明らかにカイジのことを気にかけつつも、当たらず触らずでそっとしておいてくれる。
それが痛いほどわかるから、いっそう募る少年への思慕に、カイジは苦しくなるばかりであった。
「……あんた最近、どうしたんすか」
ある日のバイト帰り。
同じシフトに入っていた佐原にいきなり詰め寄られ、カイジはスッと目を逸らした。
「べつに……、なんだよ。オレどっか、おかしいか?」
顔を隠すようにキャップを深く被るカイジを、佐原は半眼で睨む。
「……その様子だと、気づいてないってわけじゃ、なさそうっすね」
いつもより低い声に、キャップのつばの下でカイジは目を伏せた。
少年の前で無理して明るく振舞っているぶん、他の部分に反動がきていることは、カイジ自身よくわかっていた。
仕事で細かいミスが増え、毎日のように店長に怒鳴られている。
だが、より深刻なのは、罵倒の言葉すらカイジの中を素通りしていくことだった。
いつもは悔しげな顔で反抗的に睨めつけてくる癖に、まるで魂が抜け落ちてしまったかのようにぼんやりとして、なにを言っても暖簾に腕押しというカイジの豹変ぶりを、店長も気味悪がり、次第に無視するようになっていた。
ただ押し黙るカイジに、佐原は軽くため息をつく。
「あんたがなにも言う気ないなら、これ以上、追及はしませんけど」
でも、と言って、佐原はすこしだけ真面目な顔つきになる。
「でも、せめてあの少年にはちゃんと、なにがあったのか話しておいた方がいいんじゃないっすか」
カイジが夏風邪をひいたときに、少年と佐原は顔を合わせている。
あのときの、寄る辺ない幼子のような少年の姿を、佐原はよく覚えているから、余計なお世話とは知りつつも、釘を刺してきたのである。
「……わかって、るよ……」
ぼそぼそと煮えきらない返事をして、カイジはそそくさと踵を返す。
「じゃあな」
「……お疲れっす」
不満の色を隠そうともしない佐原の声から逃げるように、カイジは足早にその場を後にしたのだった。
今日、少年はカイジのバイト先まで迎えに来なかった。雀荘にでも遊びに行っているのかもしれない。
顔を合わせずに済んで良かったと、カイジは胸を撫で下ろす。
佐原に図星をさされてしまった今、少年に顔を見られたら、沈んだ表情をうまく取り繕える気がしないからだ。
目にも鮮やかな道端の紫陽花も、今は闇に溶け込んでいる。
蒸し暑い夜の街をひとり歩きながら、カイジはふっと息をついた。
どこにいても、なにをしていても、いつも心の中にあるのは、少年のことばかり。
毎晩、繰り返し見るあの夢のせいで、考えずにはいられないのだ。
やがて訪れるであろう、少年との別れの日。
それを恐れている己の心を、カイジはハッキリと自覚していた。
ぐっと拳を握りしめ、唇を引き結ぶ。
……駄目だ。たとえどんな終わりが訪れようとも、笑顔で別れてやらねえと。あいつのことが好きなら、なおさらだ。
そうするためには、少年と居られるこの日々を、後悔しないように過ごさなくちゃいけない。
やりたいこと。見せたいもの。
可能な限りたくさんの経験を少年と重ねて、ありがとな、本当に楽しかったと、心の底から言えるようにならなくては。
空き地での花火も、そういった気持ちから、少年に提案したものであった。
鬼灯のような光を映して、線香花火をじっと見つめる美しい瞳を思い出す。
胸の奥に仕舞い込んで、いつまでも忘れたくない思い出だ。
いつの頃からだろう。そんな風にきらきらと輝く少年との数多の思い出が、カイジの胸をいっぱいにしていた。
ちょっとだけ気分が前向きになったカイジは、俯いていた顔を上げ、こころもち歩幅を大きくして、足を踏み出した。
刹那。
ざあっと強い風が、カイジの体を直撃する。
思わずぎゅっと目を瞑ってしまったカイジの鼻先に、芳しい匂いが漂ってきた。
カイジの全身に、ぶわりと鳥肌がたつ。
この……匂い。現実に嗅いだことはないはずなのに、よく知っている。
すぐに風は止み、こわごわと瞼を持ち上げたカイジの目が、零れ落ちそうに大きく見開かれた。
青い空。白い花の絨毯。
何度も何度も繰り返し夢で見てきた光景が、目の前に広がっていた。
あまりの現実味のなさに、足元がふらつくような錯覚を覚える。
これも、夢なのだろうか? だとすれば、いつから? どこからが夢だったのだろう?
しかし、土を踏むざらりとした感覚が、靴底から確かに伝わってくる。
知らず呼吸が浅くなる。つう、と背中を冷や汗が伝う。
喘ぐように息をするカイジの耳に、声が聞こえてきた。
ーーお前は、あの者に何を望む
鐘のように頭の中を響き渡る声。
ひどい既視感に、カイジは目眩を覚える。
美しく、寂しく、恐ろしい夢。
幾度も見てきたそれが、ただの夢ではないことはわかっていた。
夢の中でオレはいつも、質問に答えることができなかった。
だから、痺れを切らしたなにかが、ついに現実世界にまで侵食してきたのだ……
答えなければ。言い知れぬ恐怖と焦燥に駆られ、カイジは口を開いた。
「オレは、あいつに……」
だが、カイジの舌はやはり、そこで凍りついた。
好きな人と幸せになってほしい。
そのためなら、あいつの未来にオレがいなくたって構わない。
ーー答えは決まっているのに、それこそが望みだと自分に言い聞かせ続けてきたのに、喉に栓をされたみたいに、言葉を紡げない。
絞り出そうとする声は、潰れたような呻き声に変わり、カイジは唇を切れそうなほど噛み締める。
少年の幸せを願う心と、ずっと一緒にいたいと願う心。
どちらも、少年を想う気持ちに変わりはないから、カイジは心を引き裂かれそうになる。
あまりの胸苦しさに、カイジは心臓のあたりを押さえた。
視界がぐにゃりと歪み、零れた涙が白い花の上に落ちる。
すると、たちまち花は萎れ、カイジの居る場所を起点として、湖面に波紋が広がるように、世界が漆黒に染まっていく。
次に起こることの予測はついていた。
カイジは歯を食いしばり、無残に散った花を蹴って駆け出そうとする。
だが、世界を侵食する闇はそれより遥かに早くその魔の手を伸ばし、地平線の彼方までをもすっぽりと包み込んでゆく。
こうして、繰り返し夢に見たのと同じように、カイジは広大な闇の世界に閉じ込められた。
完全に飲み込まれる直前まで、たったひとりの想い人の姿を、強く強く思い描きながら。
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