おもいあこがれ カイジさん視点 神域没後
体が重い。
特に胸のあたり、鉛でも埋まっているんじゃないかってくらいに重くて、そこを中心にベッドへどこまでも沈んでいかないのが不思議なくらいだ。
枕許で携帯が鳴っている。バイブレーションの振動が体に伝わる。きっとバイト先からだ。だが体が重すぎて、指一本動かすことができない。
十コールほど鳴って、諦めたように呼び出し音は途絶えた。押し潰されそうな静寂が戻ってくる。
怒り狂う店長の姿を想像して憂鬱になりつつも、体が動かないんだから、どうしようもない。
薄暗い天井を見ながら考える。無断欠勤も、これで何日めだろう。もはや日付すらはっきりとしない。
九月のとある日から、オレはずっとこんな調子で、起き上がることすらできないでいる。
原因はわからないけれど、きっかけは嫌というほど理解できていた。
でも、理解できたところで、なにができるわけでもない。
捨てばちになっているわけじゃないけれど、とにかく、体がいうことを聞かないのだ。
このまま朽ちるように死んでいくんだろうか。それはあまりにもぞっとしないけれど、まぁ、しょうがないかと諦めているような気持ちもどこかにあって、自分らしからぬその考えに、ますます嫌になった。
こんなことになったきっかけを、恨むような気持ちで天井を睨むけれど、微動だにしないまま天井だけ眺め続けているなんて、長時間できることじゃない。
案の定、すぐに睡魔が襲ってきて、オレは重くなった瞼を閉じた。
夢とうつつの境目のような、ぼんやりと霞がかった意識のなか目を覚ます。
視線を巡らすと、オレが寝ているベッドの傍に、赤木さんが立っていた。
なんとなく、そんな予感はしていたから、べつに驚きはしなかった。
からだがおもくてしかたがないんです、と言うと、赤木さんは、そうか、と呟いた。
そうか、って、それだけかよ。あんたのせいでこうなってるっていうのに。
恨めしげなオレを軽く受け流し、赤木さんは床に座る。
そのまま身を乗り出して、鉛のようなオレの胸の真ん中に、左耳をそっと押し当てた。
「相変わらず、子どもみてえに速いんだな」
オレの鼓動に耳を澄ませるように目を閉じて、赤木さんはうっすらと笑う。
そういや生前、抱き合ったときなんかに、よくこうしてからかわれていたっけ。
重たい胸に乗せた赤木さんの頭には、不思議と重みというものがすこしも感じられなかった。
「この音、好きだったよ。いつも必死で動いてる感じが、お前らしくて」
あたたかく穏やかな声。ふいにこみ上げてくるものがあって、オレはぐっと唇を噛みしめる。
しばらくそうしたあと、赤木さんはゆっくりと頭をもたげる。
ほんのすこしの喪失感。なにか言おうと口を開きかけたオレを制するようにして、赤木さんは白い両手をオレの胸の上に乗せた。
そのしぐさに呼応するかのように、突然そこがドクンと脈打ち、衝撃に背中が一瞬、ふわりと浮きあがる。
オレの鼓動じゃないみたいだった。まるでべつの生き物が、そこで目覚め、とつぜん身動きしたかのような。
赤木さんの長い指が、包みこむような形に丸められる。その中で、なにか真っ白な塊が、もぞもぞと動いている。
オレの胸から抜け出してきたそれは、瞬く間に赤木さんの掌には収まりきらないくらい大きくなり、オレの胸の上で大きく伸びをするように翼を広げた。
鷲か鷹に似ているが、翼がとても大きく、全身が白く光り輝いている。
燃えさかる炎の瞳を持ち、鳥のような姿をしているけど、鳥とは明らかに違う生き物。
その正体がなんなのか、オレにはすぐにわかった。
それは、あこがれだった。赤木さんが死んでから、どこにも行き場をなくしていた、オレのあこがれだった。
こんなにも大きなそれが、身動きできないくらいに、オレの胸を重たくさせていたのだ。
「こんな綺麗なもんを胸に抱いて、お前はいつも、俺を見ていてくれたんだな」
赤木さんは柔和に目を細める。
なんだか気恥ずかしくて、オレは思わず視線を逸らした。
そんなオレの気も知らず、白い鳥のような生き物は、赤木さんの頬にちいさな頭を擦り付けたり、肩のあたりをくちばしでつついたりと、赤木さんのことが大好きみたいで、ますます居たたまれなくなる。
赤木さんが腕を差し伸べると、それはすぐさま赤木さんの腕に飛び移り、今にも飛び立ちそうに翼を震わせた。
輝く白い生き物を腕に止まらせたまま、赤木さんはスッと立ち上がり、窓辺に歩いていく。
なにをするつもりだろう。とっさに跳ね起きてから、沈み込むような体の重みが消え失せていることに気づく。
赤木さんは窓を大きく開け放ち、白い生き物の止まっている腕を外に突き出した。
その生き物は首を傾げ、緋色の瞳で外の世界をじっと見ていたが、やがて、高く澄み渡った声でひと声鳴いて、赤木さんの腕から飛び立った。
白い鳥のような姿をしたオレのあこがれは、大きな羽で力強く羽ばたいて、胸のすくような秋晴れの空の彼方へ、吸い込まれるように消えていった。
最後までその姿を見送ってから、赤木さんはオレの方を見てニッと笑う。
「じゃあな。あんまり死に急ぐなよ」
あんたがそれを言うかよ。そう文句を言うより先に、赤木さんは風にでもなってしまったかのように、忽然と姿を消してしまった。
目を覚ますと、自室のベッドの上だった。
眠っている間に泣いていたのか、頬と枕が濡れていた。
深く息を吸い、ゆっくりと起き上がる。
ここ最近寝たきりだった体が、軋むような音をたてて鈍痛を訴える。
鉛のような体の重さは、完全に消えていた。
猛烈な喉の渇きを覚え、フラフラとよろめきながら台所へ移動する。
シンクの蛇口を捻り、勢いよく溢れ出る水に直接口をつけて飲む。
生ぬるくカルキ臭い水道水が、ひと口飲み下すごとに、体の隅々まで染み渡っていく。
ああ、生きている。ひどく久しぶりに、そんな実感が戻ってきた。
息をするのも忘れ、噎せ返りながら夢中で飲んだあと、両手で水をすくってじゃぶじゃぶと顔を洗い、Tシャツの裾で拭う。
ずっと着たきりだったTシャツには、濃い汗の臭いが染みついていた。
冷蔵庫に貼りつけてあるカレンダー。九月のままのそれを眺めながら、さっきあったことを思い出してみる。
果たして夢だったのか、そうじゃないのか。追いかけようとすればするほど、記憶は曖昧になって遠ざかっていく。
行き場をなくしたオレのあこがれを、青い空に解き放った赤木さん。
ずっと覚えていたいと思ったその姿さえ、刻一刻と霞のように薄れていく。
歯がゆく感じながらも、それがあの人の望んだことなんだと、無理やり己を納得させる。
本当に自分勝手な人だと毒づくと、その拍子に涙がひとつぶ、目の端からこぼれ落ちた。
赤木さんのことで涙を流すのは、おそらくこれが最後になるだろう。なんとなく、そんな予感がした。
名残のような涙を拭い、ずいぶんと軽くなった腕を伸ばして、九月のカレンダーを勢いよく破く。
紙の破れる音とともに、ずっと止まっていたオレの時間が、にわかに息を吹き返した。
終
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