ネクタイ カイジさん視点 神域没後



 黒い袖に腕を通すと、硬い生地の中で体が縮こまったように感じられる。
 スーツなんて、いつぶりだろうか。
 正装とは無縁の生活を送っているから、ネクタイの締め方さえも忘れているんじゃないかと危ぶんでいたが、カッターの襟を立て、黒いネクタイを首後ろに渡すと、手が勝手に動いてするすると結び目を作った。
 どうやら、オレの脳みそよりも、この手指の方がきちんと覚えていたらしい。
 布の擦れ合う小気味よい音。
 摩擦によって首回りに生じた仄かな熱とともに、ある記憶が蘇ってくる。


「似合わねぇ」
 開口一番そう言って、その人はくしゃりと破顔した。
 あんたが麻雀打つとこを見てみたいと、出会った当初からずっと言い続け、要望がやっと通ったと思ったら、スーツに着替えろと命じられ、言われるままに従ったらこの反応だ。

 肩を震わせて可笑しそうに笑われ、オレは無性に恥ずかしくなった。
 もう二度とあんたの前でスーツなんて着ねぇ、と悔しまぎれにぼやくと、笑い声がぴたりと止んだ。
 口角を持ち上げたまま、その人はつかの間、黙ってオレを見つめていた。
 ほんの数秒のことだったけど、短い睫毛越しの穏やかな視線に、なぜだか心がざわついたのを覚えている。

「賭けてみるか?」
 ようやく口を開いたと思ったら、その人は唐突にそんなことを言った。
 思いっきり訝しげに顔を顰めてやると、悪戯小僧のような笑みが返ってくる。
「近いうち、お前は俺の前でもう一度、そのスーツを着ることになる」
 確信に満ちた口ぶりが気になったけど、さんざ笑われて面黒い気分だったオレは、土下座して頼まれたって二度と着てやらねぇよ、と吐き捨ててそっぽを向いた。
「拗ねんなよ」と苦笑して、その人は近づいてくる。
 首許に手を伸ばされ、わずかに身を竦めるオレに構わず、その人はネクタイの結び目と大剣に指をかけた。
「俺が勝ったら……そうだな。この先どんなことがあろうとも、俺に怒らないこと」
 なんだよ、それ。謎の取り決めに疑問を感じつつも、まぁ、いつもこの人に振り回されてぐちぐちと小言を言ってる気がするから、それをやめろってことなんだろうと勝手に解釈した。
 曲がったネクタイを直してくれるその人の、ゆっくりと瞬く白い睫毛と代赭の瞳に目を奪われながら、オレが勝ったらどうなるんですか、と尋ねてみる。
 すると、その人はオレの首許に目を向けたまま、けぶるようにふっと微笑んだ。
 初めて見るその表情に、オレが息をのんで見惚れているうち、その人はきれいに整ったオレのネクタイの結び目をポンと叩き、「そろそろ出ようぜ」と言った。
 明らかに返事をごまかされていたけれど、その人はさっさと玄関を出て行ってしまったので、慌ててバタバタと追いかけているうち、結局オレが勝った場合の取り決めはうやむやになってしまった。
 その後、ある料亭で見た奇跡のような麻雀の興奮に塗りつぶされ、オレは一連のくだらないやり取りごと、すっかり忘れ去ってしまったのだ。

 それを今になって、こうして思い出している。
 結果的に、オレが勝ったときの取り決めなんて、しても無意味だったんだな。
 オレはこうしてスーツ姿で、あんたに会いに行こうとしているんだから。

 今思えば、あんたにはあのとき既にこの賭けの結果が見えていたんだから、とんでもない出来レースだったと、文句のひとつも言ってやりてえ気分だ。

 それでも、負けは負けだ。オレは気づけなかったんだから。
 あのとき、いつもと違う様子のあんたに、たしかに引っかかりを覚えたというのに、うかうかとそれを見過ごしちまったんだから。
 まぁ……気づいたところで、きっともうどうすることもできなかったんだろうけれど。

 とにかく、オレは己の愚かさを潔く認め、オレは取り決めを守らなくちゃいけない。
『俺が勝ったら……そうだな。この先どんなことがあろうとも、俺に怒らないこと』
 あんたがこんな取り決めをしたせいで、オレはあんたに怒れない。
 騙し討ちのようなやり方でふたたびスーツを着させられたことにも、オレに黙って逝ってしまったことにも、文句を言うことすら許されない。

 この取り決めすら計算のうちだったのかと思うと、苛立ちを通り越して呆れてしまう。
 乾いてひび割れたような、気の抜けた笑いがひとつ漏れる。こうして笑ってしまった時点で、改めてオレの完敗だった。

 首許の結び目に指をかけて長さを調節しながら、あの日、ネクタイを直してくれたあの人のことを思い出す。
 すらりと伸びた指のかたち。かりそめのような淡い微笑み。
 あのとき、あの人はいったいなにを思っていたんだろう。
 あんなに穏やかな目で、ただじっと自分の死を見つめていたんだろうか。

 すこし胸が苦しくなってきて、喉許を締めすぎたせいだと自分自身をごまかしながら、細い布の結び目をやや緩める。
 鏡を見ながらひとりで整えたネクタイは、あの人にやってもらったのに比べるとどこかいびつで、あの人が見たらきっとまた笑うだろうなと思った。
 それでも構わない。もういちど、笑う声を聞かせてくれよと心の中で呼びかけて、ばかばかしさに首を振る。

 立てた襟を戻すと、首回りにまだほんのりと衣擦れの熱が残っていた。
 その熱を追うように目を閉じて、あの人の指の感触を思い出そうとしてみたが、かすかな熱は夢のように醒めてしまい、できなかった。





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